[シリーズ・東建この人A]環境部会長 戸 章氏

■ 東建月報2011年7月号掲載


「仕事上達の道 好きになること」

私が今日話すのは50年以上も前のこと。『黒部の太陽』という映画が人気を集め、2年前のテレビドラマでも放映され話題を呼んだ黒部川第四発電所、いわゆる黒部ダム建設の話である。黒部ダムは、東洋一のアーチダムで、今も年間100万人の観光客が訪れるスポットとなっている。

黒部ダム建設にはトンネルの貫通が急務だった
▲黒部ダム建設にはトンネルの貫通が急務だった

何故、黒部ダムが造られたか、その背景を説明したい。当時の大阪の状況は、風刺マンガで、「ツイタリ・キエタリ・ケサレタリ」とあるように、電力不足に悩む生活状態であった。デモ隊のプラカードには「デンキをつけて」というものがあるほど、切実に電力が求められていた。そこで関西電力は大きな水力発電ダムを建設することにし、富山県に着目した。富山県には3000m級の高い山々があり、急流河川がたくさん流れている。北アルプスは20〜30mの積雪があり、これが自然のダムと言われ、黒部川に流れる。黒部川の流れは、巨大な岩石も流すほどの激しさであった。その激流に着目して戦前から下流に発電ダムが造られてきたが、巨大な発電をするためには、黒部川の最奥にダムを建設するしかないということになった。

苦闘に学べない、 自分より他人、この3つ

当協会と東京土木施工管理技士会は4月4日・5日の2日間、平成23年度建設業新入社員研修会を開催(『東建月報』6月号既報)した。会員会社などの新入社員約150人が参加し、新たな建設人としてのスタートを踏んだ。初日には、大田弘褐F谷組社長が「仕事上達の道、好きになること」のテーマで基調講演を行った。黒部ダム建設に伴うトンネル建設での苦闘の模様を語り、世のため人のため、苦しくても諦めない、自分より他人のことを考える、この3つが建設業で働く上で必要だ、と述べた。仕事を好きになり、根を張り、自分自身の成長尺度を持て、とも呼び掛けた。 基調講演の内容要旨は以下の通り。

 

約1500 人の作業員の生活拠点となった宿舎( 扇沢の大町作業所)
▲約1500 人の作業員の生活拠点となった宿舎
( 扇沢の大町作業所)

黒部川の上流に巨大ダムを一刻も早く造るためには、大量の資機材を搬送するルートが不可欠である。ダム建設のための調査隊の記録には、絶壁に丸太を通して這うように登って山に入る様子が記されている。黒部ではケガはない(落ちたら即死)と言われ、登山だけでも困難な状況で、ダム建設に必要な資機材をどのように搬入するか、それが最大の課題だった。一つ は絶壁沿いを渡る、もう一つは北アルプスの山越え、そして三つ目が長野県からの大町ルートだった。大町には山間の隙間があり、標高1500m まで道路が整備 でき、そこから一気に全長5km のトンネルをダム建設地点まで掘削し、そのトンネルの中から資機材を搬送するという、3番目の案が採用され、褐F谷組が施工を担当した。

1600m掘進し、破砕帯にぶつかる

険しい絶壁づたいに調査隊は山に入った
▲険しい絶壁づたいに調査隊は山に入った

こうしてトンネル工事の掘削が始まったが、最初は絶好調で、1日10m、1ヵ月300mという当時の掘進記録を打ち立てるスピードで掘り進んだ。そして1600m、残り3400mという地点まで掘進した時、破砕帯にぶつかった。破砕帯とは、もろく崩れやすく、水を多く含んだ断層だ。トンネルの切り羽では、1分間にドラム缶5、6缶という量で、しかもセ氏4度の凍るような冷たい湧水が噴き出した。人が数10m も流され、機械も押し流された。

崩落の危険と止まらない湧水で、トンネルの掘削は1日1pも進めない状況となった。先進導坑による水抜き、セメント注入、いろいろ試すが止水の決定打は見つからない。破砕帯がどれほどあるのか、水はいつ止まるのか、まったく分からない。米国から視察に来た学者は現場を見るなり、クレージーと言い残して帰ってしまったという記録もある。約1500人居た現場宿舎からは職人が1人、また1人と山を下りていき、士気もしぼんできた。

冬になれば水は減る、その「山勘」が当たる

現場切り羽まで訪れた太田垣関西電力社長
▲現場切り羽まで訪れた太田垣関西電力社長

この対策について各界の技術者や学者が検討していたが、ある日、現場を動かしていた笹島組(現・笹島建設梶jの笹島信義さんに聞いてみたら、「冬になれば水は減るのではないでしょうか」とポツリと言い、何故かと聞かれ「山勘です」と答えたという。そして、冬に入ると、笹島さんの指摘した通りに水の勢いが衰え、止水した。笹島さんは、現場の宿舎で作業員の炊事・洗濯に大量の水が必要で、夏は沢水で確保できるが冬場は井戸を掘り、それでも足らず雪を溶かして確保していたことを知っていた。冬場の山は水が凍り枯れることを生活の中の実感から知っていたのだ。

こうして掘削が再開し、破砕帯を突破した。後で判明したが、破砕帯は80m だった。その80m を抜けるのに7ヶ月もかかったのだが、凍るような冷たい水との闘いを支えたのは、発注者、元請会社、協力会社が心を一つにして難局に立ち向かったことだ。こうしてトンネルは貫通し、資機材の搬送が可能になり黒部ダムは完成した。ダム工事全体で172名の尊い命を失い、今でもお盆の時期には慰霊祭が現地で行われているが、最大の難工事であった破砕帯では1人の犠牲者も出していない。それは緊張感のなせるわざであったといえよう。

土木の世界に導いた太田垣、笹島二人の人物の共通性

私は黒部川沿いの町に生まれ、黒部ダム建設に魅せられて、土木に憧れ褐F谷組に入社した。私をこの土木の世界に導いた人物は二人いる。一人は関西電力鰍フ初代社長の太田垣士郎さん、もう一人が笹島建設渇長の笹島信義さん。太田垣さんは湧水に立ち往生している現場に訪れトンネルに入り、これ以上は危険だからと進むのを止められた時、「君何を言っているのだ、その危険な仕事をさせている会社の責任者の私が行けないとはどういうことだ」と言い、さらに切り羽へと進み、崩壊と背中合わせになっている現場で作業員を激励した。そして会社に帰ってから社員に対し、「ルート変更はしない、破砕帯突破をしようとしている黒部の戦士達を励ましてくれ」と指示したという。鉛筆一本、用紙一枚片まで黒部ダム現場のために、と 呼び掛けた。そして破砕帯を突破した時「これでもう恐れるものはない。これだけの経験をしたのだから、今後どのような困難に直面しても克服できる」と語ったという。そして黒部ダムが完成した昭和37年の翌年、亡くなった。

もう一人の笹島会長は、最近、本人に「何故、山を下りずに破砕帯と闘ったのか」聞いたところ「金だけではないな、筋の一本を取ったということだな」と話していた。

笹島会長語録の一つ(スライドより)
▲笹島会長語録の一つ(スライドより)

その筋とは、世界中で600本以上のトンネルを掘ってきたが、仕事で苦しくなったとき黒部を思うとその苦しさが消えるとも語る。そして日本一のトンネル屋になった秘訣を聞くと、「それは仕事を好きになること」と話している。笹島さんは黒部の破砕帯の時は、ヘルメットを枕に、すぐ動けるように作業服のまま寝るような生活だったという。頭は破砕帯のことで一杯だったのだろう。仕事を好きになり、それを徹底する気迫と熱意が日本一に導いたのだと思う。

片や京都帝大出のトップ企業の社長、片や尋常小学校出のトンネル屋、この二人には共通点がある。その一つは「お金のためでなく世のため人のため」ということが仕事のベースになっていること、二つ目は「苦しくとも諦めない」という姿勢。三つ目は「自分のことより他人のことを考える」ということ。この三つが、これから建設業で働く皆さんにとっても必要なことであると思う。

植木屋から聞いたことだが、すくすく伸びる木は倒れやすく弱いという。なかなか伸びなくとも根を伸ばして育つ木は強い。気候条件が厳しい時は、伸びないが、むしろ根を張るチャンスでもあり、根を張ることにより幹を大きくし、きれいな花を咲かせるという。厳しくとも根を張るように頑張ってほしい。今日話したトンネルの世界で言えば、抜けないトンネルはないが、トンネルは抜こうとしなければ抜けないと言われている。強い意志があってトンネルを抜くことができるのだ。

もう一つ皆さんに言いたいのは、自分自身の中に成長の尺度を持ってほしいということだ。自分の成長はその人にしか分からないものだ。去年より成長しているのか、成長できたのか、常に自分の心の中に問いかけ、尺度にしてほしい。

建設業は100年、日本の安全支える基幹産業

今日の話は50年前のことだが、建設業にチャレンジする皆さんが、これから何かの折に辛くなり、迷うようなことになった時には、黒部の破砕帯を思い出し生き方のヒントにしていただければと思う。建設業は不況業種だ、きつい汚い仕事だ、といろいろ言われているが、流行産業ではなく、50年、100年、日本の安全を支える基幹産業である。汗と苦労を厭わず、社会のために全力を尽くす、使命感と志を愚直につないでいく産業である。自分の心の中に明かりを灯して頑張っていただきたい。

現場切り羽まで訪れた太田垣関西電力社長