太田道灌の顕彰碑(千代田区竹橋)
昭和になって江戸城虎ノ門の遺構から掘り出された石材に、道灌の功績を刻んだもの。道灌の死後、江戸の土地は荒れ、都市として再建されるには覇者・家康の出現を待たねばならなかった。
   
 
   
 道三堀に沿った常盤橋の東側地帯である「本町」の町割にも着手し、ここに町人の移住を奨励しました。
 道三河岸に沿った町づくりとならぶ大規模工事は、日比谷入江の埋立で、第1次工事は文禄元(1592)年の西の丸築城のときの堀の揚げ土を用いて方三十町(3キロ四方余)が埋め立てられました(現在の日比谷公園、帝劇、皇居前広場のあたり)。3年後には、荒川に千住大橋が架けられました。江戸は海岸に近いため、井戸を掘っても水が得られず、小石川沼から水を引いて水道とし、やがて井の頭池を水源とする神田上水が敷かれます。
 このように家康の入府後、江戸の整備は急速に進みましたが、秀吉の命によっていつまた転封があるかもしれないことから、「荒れた低湿地」を整える土木工事が中心で、本格的な都市整備が行われるまでには至らず、江戸の本格的な整備は、関ヶ原戦いで徳川氏が天下の覇権を握ってからのちのことになります。
 天正18年(1590)の江戸御打入りから幕府を開くまでの13年間の家康は、依然、豊臣政権の上席軍団長で江戸に座を温める間もなく、出陣や関西勤務などが続きますが、秀吉の死後は、関ヶ原の戦を経て、次第に実質的な政権リーダーへと昇りつめます。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍が大敗すると、豊臣氏は摂河泉約70万石の一大名に転落してしまい、「家康の時代」がぐっと近づきました(以下次号)。
 
 
 
日本橋(架設400年)
家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年(1603)に架橋されたといわれ、当時は長さ約68メートル、幅約7メートルの木橋。平川の延長の日本橋川に架けられ東海道はじめ5街道の起点となった。「唐人(からびと)も渡るや霜の日本橋」これは関が原の戦いで敗れた武将が架橋から2、30年後に詠んだ一句。現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋され国の重要文化財。江戸開府と同じく架設400年を迎える。
 
道路元標
日本橋の袂(日本橋三越側)にある。道路元標は道路の起点・終点・経過地を標示する標示。戦前東京市については日本橋の中央が「日本国道路元標」と定められた。

 
   
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