小名木川
現在の小名木川の水面を見て、これが家康の江戸入府直後に開削された江戸にとって重要な意味をもった運河と気づく人はいないかも知れない。写真は、深川萬年橋より隅田川との合流点を望む。左手の橋は、清洲橋。
東京駅(丸の内口)の江戸城の石垣
話題の丸ビルのすぐ前の東京駅丸の内中央口があり、石に「東京駅」の文字が刻まれている植え込みがあるが、その中に江戸城に使われた石垣がごろりと寝転び、東京の玄関口から現代を見わたしている。
 
 
   
江戸の原型
江戸は「海水が陸地に入り込んだ“江”の入り口である“戸”」にある土地という意味で、中世にはこの地名を姓とする江戸氏が治めていました。つまり広い武蔵野台地の江戸湾に面した一部が「江戸」でした。武蔵野台地は五つの小台地が関東の奥から江戸湾に向かって伸びていました。人間の右手に例えると親指が不忍池からせり上がる上野台地で、ひとさし指が本郷台地、麹町台地、麻布台地、品川台地と続きます。古代人の遺跡はこれらの台地から出土し、江戸城を始め大名屋敷もここに位置しました。台地と台地の間には川が流れ谷・窪や坂があり、谷中、茗荷谷、荻窪、大久保、団子坂などの地名もそれを物語っています。本郷台地が神田で途切れるとその先は平川という川を越えて江戸前島と呼ばれた日比谷入江に面した半島がありました。中世に入り平川一帯を治めた江戸重長に続き15世紀には太田道灌が治めて賑わいますが、その後は荒れるにまかせ、家康の江戸入りの当時は「萱葺きの民家が100戸ばかりあっただけで、東方の平地はどこもかしこも潮の入ってくる草原、西南は茫々とした草原が武蔵野の果てまでつづき、どこを区切りとしてよいかわからぬさまである」という光景が続いていました。
徳川家康 (1542―1616) の像
49歳で江戸入りした家康だが75歳で没するまで江戸滞在期間は意外と短く延べ5年1ヵ月。(中村孝也編『徳川家康公伝』)
 
 
今月の表紙  
 
「江戸図屏風(左隻)」 「江戸図屏風(右隻)」
「江戸図屏風(左隻」(国立歴史民族博物館)
17世紀の作品。江戸時代初期の江戸市街地および近郊の景観を画題として、そのなかに江戸幕府第三代将軍徳川家光の事蹟を描き込んだ、六曲一双の屏風。成立期江戸の景観を描いた数少ない資料のひとつ。千葉県佐倉市にある「国立歴史民族博物館」が所蔵しているが、原品の公開は、史料保護の理由から年間4週間以内に限っている。例年、5月連休前後の2週間は公開している。それ以外は、時期を限って複製を公開している。
[国立歴史民族博物館のホームページ http://www.rekihaku.ac.jp/
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