江戸の大名屋敷  
菊岡倶也(建設文化研究所主宰    
 
幕末の頃の江戸の土地利用。周囲には、防衛のため寺を配置。武家地と町屋は、いまの山手・下町に区別される。
(出典:正井泰夫”江戸時代の都市の自然環境”「地理」vol.22,no2,1977)

江戸の69%を占めた武家地の内訳は

 武家地・寺社地・町地と代官支配地(百姓地を含む)。江戸の土地は、この三つの身分社会を反映した区域と代官支配地から構成されていました(人口増加とともに区別の厳密さは崩れますが)。
 幕末期の江戸は全市街の69%が武家地で、その内訳は、大名屋敷地2,771ヘクタール(35.6%)、一般武家屋敷地1,878ヘクタール(24.1%)でした(正井康夫 二万分の一”江戸の都市的土地利用図”「地図」13-1)。一般武家屋敷地には旗本、下級の幕臣や大奥女中、医師、絵師、坊主、能役者らが住み、町人に貸したりもしていました。武家地は大目付・目付などを通じて老中・若年寄の支配下にありました。
 いま都心部の市街地再開発などの現場で武家屋敷の遺構が発掘されるのは、もともと武家地が大きな面積を占めていたからです。
 大名屋敷には、表のように上屋敷ほかいくつかの区別があり、とくに江戸初期は大名屋敷と武家屋敷の造成と建築が間断なく進められていました。

 
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