勘定奉行のこと−建設工事の決裁権と工事入札の決定権を持つ
勘定奉行という名称から今の財務省を想い起こしますが、その仕事はもっと広範でした。直轄地400万石を配下の代官や郡代を通じて支配し、そこから上がる租税以下のすべて出納を勘検し、江戸の後背地である関八州の公私領とそれ以外の幕府領における領民の訴訟を扱い、建設工事を決裁し、幕府の金庫である御金蔵・御蔵を監理し、交通宿駅を所掌するなど、今日の財務・国土交通両省と裁判所にまたがる広い業務を所管しました。
さらに、寺社奉行と町奉行とならび幕政の最高機関である評定所(ひょうじょうしょ)の構成員として最高政策に直接参画し、作事・普請奉行などよりも一段上のポストでした。
建設工事についても、幕府領内における決裁権と工事入札の決定権をもち、幕領の行政官である代官を指揮し領内の建設工事を施行しました。普請・作事の両奉行は起案するだけで決定権はなく、幕府領内での建設工事の決裁は勘定奉行が握っていたということになります。勘定奉行は3,000石高です。
定員は幕府行政の特徴である複数制で、4名が月番制といって1ヵ月交替で業務を処理し、合議制で事を決しました。
役宅の広さは、40間四方で門番所付の長屋門を持ち、長屋は窓付の白壁で下はナマコ壁と定められ、虎ノ門内・神田橋外・小石川門内、小石川町にあり、ここから御殿、御勘定所および大手門内の下御勘定所に出勤しました。
普請奉行のこと-土木行政の最高職
普請奉行とは、室町幕府などにもみえる職名で、江戸幕府では作事・小普請両奉行とあわせて下三奉行(したさんぶぎょう)といいました。城の石垣、堀普請、地形(じぎょう)、縄張(なわばり)、屋敷割、明屋敷の受授などに加え、明和5年(1768年)以降は上水(じょうすい)方(神田・玉川上水)、道方(みちかた)が職掌でした。
幕府の創設当初からあるポストで、寛永9年(1632)より恒職となりました。奉行は年に2回、領内を見回って土木の現状を視察し、報告書を将軍および老中に提出することや江戸で新築する者、道路を開く者、車止めの制札をたてる者、新規屋敷を配領した者の届出を受理することも役目でした。大岡越前守忠相も一時この職にありました。待遇は作事奉行と同じ2,000石で目付、勘定吟味役、遠国吟味役などに昇進し、さらに勘定奉行や町奉行に昇進しました。下僚に下奉行、改役(あらためやく)、普請方、仮役、同心、同心肝煎(きもいり)、地割棟梁や竜ノ口にあった普請方定小屋詰めの門番人などがいました。
普請方は、世襲職で欠員があれば配下の同心や黒鍬(くろくわ)者から昇進しました。工事現場の監督が主務でした。仮役は、奉行に直属して工事場を巡視し配下の勤務評定を行い、材料の適否を判定しました。普請方に欠員があれば昇格したので、このポストを狙う者は多かったといいます。普請・作事・小普請各奉行に属する幕臣は江戸城、日光、久能山その他の工事で功労があった者や、永年勤続者には在職中に扶持(ふち)が増給されるという恩典がありました。
奉行は巳刻(午前10時)城内に出勤し、未刻(午後2時)には退出しました。1ヵ月間休日なしの毎日出勤で、1ヵ月が過ぎると交替し、非番の月は武芸学問に励むことになっていましたが、江戸中期以降は出世のための社交や、下級武士は内職に精を出しました。
普請奉行の役所兼自宅は33間四方の約1,000坪、和田倉門から呉服橋寄りの評定所の前にあって左右には作事・小普請の両奉行所がありました。
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