出火元といわれる本妙寺跡(文京区本郷5-18のあたり)
本郷3丁目駅近くの菊坂通りを下ってしばらく歩いた右側の一帯が本妙寺跡です。かつては16,203uの拝領地と816,75uの持添地がありました。今は、マンションが建設中。近くに本郷菊冨士ホテル跡、樋口一葉旧居跡、石川啄木の下宿跡や文京区立真砂図書館、文京区立ふるさと郷土館などがあります。
 「上様(四代将軍家綱)も蓮池御門の方へ移られる様子で、おびただしい人の音が聞こえ、御女中方もみな後先になって西丸へ行く様子である。本丸、二の丸に詰める人々もみな西丸の方へ行くので、自分もまず西丸御台所御門の下まで出た。しかし本丸南方の多聞や富士見櫓まで燃えてきたときには、熱さにたまりかねてようやく坂下門外までのがれ出た」(現代文に直しました)。この臨場感あふれる報告は幕府の石方棟梁亀岡家の石見入道宗山の「後見草」の一節です。
 史料により相違はありますが、三次の火災で被害は大名屋敷160余、旗本屋敷770余、寺社350余、民家4万8千戸、橋61、倉庫9,000余、罹災市街は両側町400、片町800、大名小路500余、死者は10万人以上(3万7千人、6万9千人弱という別の説もありますが)といわれ、家康以来、面々と築かれてきた江戸の町は一面の焼け野原となりました。焼失面積は約26.8平方キロメートルといいます。「むさしあぶみ」(国立国会図書館蔵)という江戸時代の書物には大火の模様が描かれています。
巣鴨に移転した本妙寺(豊島区巣鴨5-35-6)
出火元(諸説あります)の本妙寺にはさしたる咎めも、罰も、移転の要請もなく、本郷丸山の地で明治時代を迎え、明治43年巣鴨に移転しました。
本妙寺の明暦の大火供養塔
本妙寺本堂裏手にあります。
名奉行・遠山左衛門尉景元の墓
ご存知、遠山の金さんは、ここに眠っています。本妙寺境内には、ほかに剣豪・千葉周作、囲碁家元・本因坊歴代の墓、棋聖・天野宗歩等々、多数の有名人のお墓があります。なかには清水建設慰霊塔も。
上野広小路(台東区上野)
いまはビルが密集して「広小路」の面影はありませんが、上野公園下から松坂屋デパートのあたりが延焼防止のための防火帯としての広小路でした。広小路はふつうの道路より幅広くつくられ、恒久建物をつくることは禁じられました。
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