職人町の形成と解体
昔からここで生計を立てていた一流の職人は、江戸にはいませんでした。そこで大工・左官をはじめ職人たちが他国(徳川氏のもとの領地であった三河・遠江・駿河や伊豆や甲州などのほか京都や伏見)から江戸に指導者として呼び寄せられました。新しく造成された神田・日本橋周辺には職種ごとの職人町(建築関係では大工町、木挽町、大鋸町、白壁町、畳町など)が設けられました。
江戸城建設の初期においては職人集団を確保する必要があり、とくに建築関係や武具関係の職人町が多く設けられました。職人町は国役町(くにやくちょう)とも呼ばれました。
そこに住む職人は地子(ちし)(税金のこと)免許の特権を与えられる代わりに、親方大工は年に数日間、無償で江戸城の建設に従事するなどの国役(くにやく)をつとめる義務がありました。
幕府のほかに大名たちが屋敷づくりに際して国元や先進の関西地方から職人を招くということもあり、このような職人たちの江戸入りは先進の技術と道具類が江戸に導入されることでもありました。
しかし、17世紀半ばになると、国役は役銀(代役銭)納入に代わり、職人たちもまた技能の奉仕よりも代役銭を納めることを望みました。前号に触れた明暦の大火(1657)は職人たちの市中散在を決定的にしました。大火によって職人町を追われ、また周辺農村からも江戸に流入してくる多量の入込み職人(いりこみしょくにん)もあって職人街は崩れました。
大火のほかに民間工事の増加にともない職人たちも同業町を出て仕事のある別の町に住み、民間の仕事に従事するようにもなりました。幕府にもこの流れは止められませんでした。
こうして職人町は江戸の中期以降になると、解体の方向に向かいます。
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