【シリーズ】世界からつどう−未来への遺産(第4回)/東建月報2007年4月号掲載

「車の時代」の都市への変換


▲五輪橋(JR原宿駅付近)


▲旧ワシントンハイツの敷地に建設された道路

昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に向けての都市開発は、戦後東京の姿を大変貌させた。昭和30年代、戦災からようやく立ち直りかけた日本であったが、都市のインフラにおいては人口の膨張やモータリゼーション化に対応することがその時期必要とされていた。
また、オリンピックのために来日する選手団、観客を迎えるためにも空港からの交通インフラ、そして会場周辺の道路整備が必要となった。野良犬の捕獲、立小便の禁止など、都市の風紀のための、今から考えると牧歌的な施策が、都民に向けてさまざまに示された。21世紀の東京で今さかんに愛惜されている、いわゆる昭和30年代的な懐かしい風景は、その時期消えようとしていた。
オリンピックが契機となったが、当時の東京は、ここで一段と都市基盤の整備を進めなければ、経済成長の速度に都市が追いついていけない状況になっていた。高速道路の建設、地下鉄工事や都電の廃止、幹線道路の拡幅などが、この前後都内各地で進められた。
オリンピックのメイン会場は代々木・神宮地区と、世田谷の駒沢地区であった。そのため、オリンピック時期に合わせたインフラ整備は、都内南西部と都心地区が先駆けて行われた。なかでもいわゆる「オリンピック道路」の整備は、現在の渋谷地区の発展の基礎となった。それまで東京の郊外の趣のあった渋谷の街周辺が整備され、1970年代に一気に盛り場化する下地がつくられた。
オリンピックの代々木会場の用地は、戦後GHQにより接収され、ワシントンハイツとして主に米軍将校の家族用住宅となっていた地区である。92万4000平方メートル、27万坪。827世帯の米軍住宅、将校クラブ、教会、学校、劇場などが建てられていたが、戦前は陸軍の練兵場だった場所である。
国はオリンピック開催を理由に、この土地の返還を粘り強く交渉した。そしてここに代々木競技場と選手村が建設されたのである。
大会後には、選手村などに利用された地区が代々木公園になり、都心に広大な森林公園が成立したことは意義深い。
オリンピックに際しては、代々木地区では、旧ワシントンハイツの敷地の中央を貫くように、道路が計画・建設された。原宿駅前、明治神宮前の五輪橋から富ヶ谷に至る道路である。この道は、近年代々木上原駅前の井の頭通りともつながり、幹線道路としての利便性が一気に増した。また、小田急線参宮橋駅から代々木公園の外縁を通り宇田川町から渋谷駅に至る道も建設されている。
その歴史を知って、この代々木公園周辺を歩いてみると、東京オリンピック当時の時代の息吹のようなものを今もその街並みから感じる。



神宮-駒沢をつなぐ放射4号線の整備


▲国道246号線・青山通り


▲首都高速道路1号羽田線


▲首都高速道路4号新宿線


▲日本橋

そのほかオリンピック時に整備された主な道路というと青山通りと環状7号線などが挙げられる。それら建設事業は昭和36年(1961)4月に始まっている。
メイン会場である神宮地区と駒沢地区を結ぶ放射4号線、つまり青山通りの整備は急務であった。青山通りとは国道246号の渋谷−赤坂見附間を称し、同じ国道246号でも渋谷から駒沢方面の世田谷区二子橋までは玉川通りと称する。
それまでの青山通りは、表通りには小さな商店や事務所ビルが並んでいたが、通りから裏手に入ると静かな住宅地が広がっていた。一方、渋谷から駒沢方面の玉川通りは、玉川電車がゴトゴトと走るのどかな通りだった。現在の放射4号線の幅員は約30〜50メートル。これは以前の道路を北青山側に約7メートル広げたものだ。表通りの商店は移転を余儀なくされ、その土地買収費用には、当時の金額で坪40万円という高額が支払われたという話もある。拡幅にかかった費用は、首都高速道路建設の5倍だったというから、あながち嘘ではなさそうだ。当時はまだ青山通りを2系統の都電が走っていたため、上下2本の線路が通りの中央を占めていた。その都電は、荒川線を残して昭和42年(1967)に廃止される。
オリンピック後の青山通り沿いには、1階に商店が入り、上は住宅という、いわゆるゲタ履きアパートが軒並み造られた。その街並みも、今や日本を代表するファッションの街と化している。


首都高速が変えた都心の景観

東京オリンピック時の東京の人口は900万人。昭和39年7月に自動車の登録台数は100万台となり、月1万台ずつ増えていく状況だった。昭和30年代の初頭から、このままでは東京の自動車交通がパンクするのは目に見えていた。街路だけでは、この交通量はとてもさばけない。オリンピックというこの絶好の機会に、高速道路の建設も一気に推し進められた。
有楽町と銀座の間にあった外堀は、昭和30年代に埋め立てられ、その上にあたる新橋駅北から有楽町まで約2キロ、東京で初めての高速道路が造られた。その道路下は駐車場や店舗などにされた。数寄屋橋付近でおなじみの西銀座デパートなどがそれである。この区間だけを通るのは無料な上、都心の景観も楽しめる、昭和30年代マニアの間では、ちょっとした東京名所的なスポットにもあげられる場所だ。
これに次いで、オリンピック開催までに本格的な首都高速道路の建設が始まる。首都高速道路公団は昭和34年6月に設立された。
オリンピック関連高速道路として建設された高速道路の合計距離は、30キロほど。5路線あった中でも、特に首都高速1号線と4号線は、オリンピック大会時に選手や大会関係者の輸送に重要な役割を果たすものだった。1号線は、江戸橋から羽田間の17キロが建設され、銀座から羽田に15分で行け、都心から空港までの所用時間の短さは誇るべきものとされた。4号線は江戸橋から甲州街道入口の初台までの11キロ。オリンピック選手村、神宮メインスタジアム、赤坂見附、千鳥が淵、皇居などを通り、都心の緑豊富な景観を望むことができる。
当初、銀座、丸の内、日本橋、渋谷など都心の主な場所が高速道路で結ばれたが、オリンピック後に延長が行われ、今ではその総延長距離はオリンピック時の4倍以上となった。
昭和30年代、それまでの日本には、自動車交通用のまともな道路はなかったと言っても過言ではない。舗装してある道はめずらしく、雨が降ればどろんこ、晴れれば土ぼこり。道の脇にはドブが流れていた。そんな状況の中、突貫工事で造ったのが、用地買収などの関係で、川の上などに無理やり造った首都高速道路だった。
その首都高速道路も、築40年を過ぎて、地震に対する橋脚の補強、景観上の配慮や防音対策などが行われている。近年もレインボーブリッジの開通や湾岸線の延長など、新たに道路網は広がっている。そして、今もっとも注目されているのは、日本橋の上を通る首都高速都心環状線を撤去移動させる、というプロジェクトだ。周辺の日本橋川沿いの建物の移動なども伴う大規模な計画であるが、これが都心のこれからの街づくりにどのような影響を与えるかには注目したい。



夢の超特急・新幹線


▲東海道新幹線


▲東京モノレール

日本の鉄道技術の中でも、世界に誇るべきものに、新幹線があげられるだろう。開通から42年、大きな事故もなく、年々スピードをあげ、東北、九州へと鉄道網を広げている。今年1月に開業した台湾新幹線も日本の技術によるもの。現在、中国国内に敷かれる新幹線が、日本の新幹線の技術を採用するか、ヨーロッパのTGVの技術を採用するかを検討されている途上にある。
新幹線開通前後、夢の超特急と呼ばれた0系車両も、今見ると丸顔でとてもかわいらしい。現在の流線型のカモノハシのような700系のぞみ号とはまったく別物のようだ。
新幹線は列車自体が注目されがちであるが、高架橋、橋梁、トンネルなど、軌道部の建設は、当時の建設業に携わる人々がさまざまな苦難を乗り越えて成し遂げたものだった。
特に東京都内では、国鉄の在来線や私鉄と交差したり、直上高架になったりという難工事の現場が多数発生した。中でも大田区の馬込工区約2キロ間は、新幹線有数の難工事区となった。第二京浜道路を通行止めにしての橋梁工事、国鉄品鶴線のダイヤ変更など、三重交差に地下鉄まで伴う四重交差などを乗り越えての工事だった。
また、昭和30年代当時においても、1日の乗降客数80万人という東京駅での新幹線新駅工事は苦心惨憺たるものだったようだ。品川か新横浜に仮ホームを造って開業か、という危機的な状況を乗り越え、最終的に東京駅の工事は完了した。
さらに、国鉄浜松町駅から羽田空港までをつなぐ東京モノレールもこのオリンピック時に建設されたものである。新幹線とモノレールという、この時代に整備された交通インフラは、鉄道から車へと移行している時代に逆行しているのではないか、という見方をされていたが、今から考えると、この2つを造ったことは、大変先見の明があったということになる。羽田空港からのマス・トランスポーテーションができたのは、この東京モノレールがあったためである。
モノレールは、オリンピック開会まで、残すところ1カ月もない昭和39年9月に開通した。タクシーの初乗りが100円だった時代に、片道250円という高い運賃のため利用率は低かったが、その後、首都高速の渋滞のためバスやタクシーより早いというイメージから、空港への足として定着した。
平成10年(1998)には、京急、都営地下鉄、京成が相互乗り入れにより営業を強化し、東京モノレールは激しい競争にさらされることになるが、平成14年にJR東日本に買収され、SUICAでの乗車や快速運転など、さまざまな営業改善策を行い、競争力をつけてきている。

昭和39年10月をめざして行われた、当時の東京のインフラストラクチャー整備を、今振り返ってみると、けっこう荒っぽいことも行われていたことを感じる。しかし、それら建設工事の記録を読むと、建設業に関わる人びとの仕事に対する真摯さがひしひしと伝わってくる。
東京オリンピックを通して、日本は「時間管理」がしっかりできる近代国家である、というイメージを形づくった。タイムスケジュール通りにセレモニーが行われ、着々と進行していく。それが成し遂げられたのは、会場の施設や、オリンピック道路、モノレール、新幹線などを期日までに造り上げた日本人の国民性である。
今も残るオリンピックでできた東京の街並みを見ると、昭和30年代の日本人の心意気を感じて、胸が熱くなる。


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