[東京と記念日] 2月15日 江戸歌舞伎発祥の日

■ 東建月報2011年2月号掲載


1624(寛永元)年2月15日、初代猿若中村勘三郎が、幕府の許可を得て今の京橋付近に猿若座(後の中村座)を開場したと言われている。これが江戸歌舞伎の始まりで、この地には「江戸歌舞伎発祥の地」と書かれた碑が建てられている。1603(慶長12)年、出雲の阿お国くにが京都四条河原で「念仏踊り」などを上演したことから始まったとされる歌舞伎は、猿若座の誕生以降、上方と江戸でそれぞれ独特の様式を持つ芝居に発展していった。それが明治維新後の近代国家の形成過程で、日本の伝統芸能として新たな発展を遂げる。その象徴が東京・銀座木挽町に建設された歌舞伎座である。それ以降、歌舞伎座は関東大震災、東京大空襲など時代の転換に直面しながら、東京の隆盛と共にその姿を変えてきた。そして歌舞伎ブームの今、五代目の改装工事に着工し、新時代の殿堂が造られようとしている。その歴史を追跡してみると――。

新しい日本の国劇の拠点として

歌舞伎の語源は、「かぶく」から来ているのはよく知られている。「かぶく」とは「傾く」の意味で常識離れを意味する。始祖である阿国は、男装をして、茶店の女と戯れたりする斬新な振付けを考え、それが「傾く」女として評判を取った。こうした庶民文化の象徴というルーツから発展してきた歌舞伎を、明治維新以降、「演劇改良運動」という風潮のもとに歌舞伎の形態を根本的に改良し、新しい日本の国劇として再展開するよう企てたのが、元東京日々新聞社主の福地桜痴(本名源一郎)であった。彼は、新しい歌舞伎の拠点として歌舞伎座を建設した。

「歌舞伎座とは、もともと普通名詞として用いられていた言葉で、卑賤視されていた小芝居の対局にある権威ある大芝居の劇場を意味していた。福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」(今尾哲也『歌舞伎の歴史』岩波新書)とあるように、歌舞伎座の建設が欧米におけるオペラ劇場のように外国の賓客を招くのに相応しい社交場として権威付けることなった。

1889年に開場した歌舞伎座(写真1)は外観洋風、内部和風で、総檜升席の、木造3階建て建築だった。大シャンデリアが吊るされ、舞台間口が12間(約22m)もあった。それまでの芝居小屋の中では大きなものだった新富座(8間)をはるかにしのぐ舞台空間で、約1700人の観客が3層の舞台から観賞できるものだった。

その初代の歌舞伎座は、1907年に内外を修繕改築するが、全席椅子席のルネサンス様式建築の帝国劇場が1911(明治44)年3月に完成したことに対抗し、純和風に改築して同年10月に竣工する。これが二代目歌舞伎座(写真2)である。この二代目は、初代の骨組みを生かした奈良朝の御殿風の外観。「正面の大玄関は格天井で、客席には総檜造りの高欄が付いていた。あまりの豪華さに神殿と間違えて賽銭を上げた通行人がいたと伝えられている」(清水建設『匠の技第1号』)という。

1914(大正3)年には松竹が興行の一切を取り仕切ることになる。二代目の歌舞伎座が全焼したのは1921(大正10)年であるが、その原因が漏電だというのも時代を思わせる。この反省から、燃えない鉄筋コンクリート造で再建することとなり工事に着手したが、上棟を終えたところで今度は関東大震災(1923年)による火災に襲われ、内部を焼失してしまう。

幾たびかの焼失乗り越え再建

再着工し三代目歌舞伎座(写真4)が竣工したのは1924(大正13)年12月のことで、開場は翌年1月だった。設計は岡田信一郎で、桃山様式の、華麗なファサードが威容を誇っていた。観客席は4層にせりあがり、舞台間口も15間に広がる大舞台となり、収容観客は2500席を誇った。だが、その三代目も、太平洋戦争が激化し、1944(昭和19)年2月興行以降、閉鎖され、1945(昭和20)年の5月、東京大空襲により外壁の一部を遺し、焼失してしまうのだ。

歌舞伎座は、時代の変遷の中で、その姿を変えながら、人々に楽しみを与え、歌舞伎の殿堂として存在してきた。その蘇生の変遷は、まさしく東京のまちづくり、都市づくりと軌を一にしているのである。

焦土の中から東京の街がたくましく復興する中にあって、歌舞伎座再建も始動する。修復設計は吉田五十八と木村武一。四代目歌舞伎座は1949(昭和24)年9月に着工(写真5)し、翌年12月30日に完成(写真6)する。構造は三代目をそのまま生かし、最新技術を結集した苦心作である。客席上部は鉄骨造、正面玄関など荷重の大きい部分は鉄骨鉄筋コンクリート造、石材も地下1階から地上4階までふんだんに使われた。これらの供給資材を、物資の乏しい終戦直後に調達した苦労は並大抵ではない。

図1(5 ページ)は、四代目の建築構造だが、こうして見ると屋根のウエイトがいかに高いかが分かる。その瓦は80種、27万枚以上が使われていたという。しかも土で瓦を固定する土葺きの本瓦葺き(平瓦と丸瓦を交互に組み合わせる)なので重量が相当なものだ。それを鉄骨テラス構造やコンクリート垂木の空洞化など極力軽量化の工夫をしていた。また通りから見えない、中央部の客席上の屋根は瓦でなく銅板を採用し、荷重を軽減している。重厚な瓦屋根を実現するために軽くて強い構造技術が駆使されているのだ。

五代目は新しい文化発信の拠点として

戦後、東京・銀座のランドマークとしても慕われてきた四代目歌舞伎座だが、昨年4月30日、最後の舞台「閉場式」が挙行された。2013(平成25)年春に完成予定の五代目の工事が始まる前の、四代目最後の晴れ舞台である。当代を代表する大幹部俳優による「口上」、立役俳優の顔合わせによる舞踊「都風流」や女形俳優の「京鹿子娘道成寺」などが上演され、最後は舞台に俳優、関係者200人が勢揃いして手締め式を行った。劇場には入りきれないファンが場外にも殺到し、カメラや携帯で四代目の雄姿を撮影する姿が後を絶たなかった。

そして5月に解体工事が始まり、10月28日には新築工事の起工式が行われた。建替え(外観イメージ図参照)は、劇場部分は四代目のような和風桃山式を採用し、内部空間も同様な印象にする予定。バリアフリー化や地下鉄東銀座駅と地下通路で直結させてアクセスを良くし、さらに超高層オフィスビルを併設し、建物全体では地下4階地上29階建てとなる。まったく新しい「にぎわいの空間」として生れ変わろうとしている。設計は三菱地所設計と隈研吾建築都市設計事務所が担当している。また、劇場監修は杉山隆建築事務所。複合文化拠点、都市基盤の整備、みどり豊かな都市空間、環境負荷低減への取り組みの4 つのコンセプトを掲げ、劇場・歌舞伎座だけでなく、文化交流施設、アカデミー施設、ギャラリー施設、災害時避難機能、防災備蓄倉庫、屋上庭園などが新たに計画されている。

これまでの劇場空間を生かしながら、新しい東京の文化発信の場が造られようとしているのである。