■ 東建月報2011年3月号掲載 |
3月10日は、東京都の条例で定められている「東京都平和の日」である。昭和20年3月10日未明の大空襲により、都内の三分の一が焼尽され、一面の焼け野原となり、死亡・行方不明者も10万人近くに及んだ。その戦争の惨禍を風化させず、二度と繰り返さないという願いを込めて「東京都平和の日」が平成2年7月に制定された。今年も、都庁では午後1時から石原慎太郎知事をはじめ関係者が出席し、第21回記念式典が行われ、記念講演や東京空襲資料展も開かれる。今でこそ、焼け跡の廃墟から立ち上がった平和の首都・東京だが、終戦直後のまちづくりは計画と現実の不断の、過酷なせめぎ合いであった。「平和の日」を迎える機会に、大空襲の記憶と共に、戦後直後の、東京のまちづくりにおける苦難の軌跡も記憶されてしかるべきであろう。
「空一帯の火の手の内、すぐ近くの九段の火事は家の前の往来から一走りの二七通まで迫り、或いはこの辺りもその続きで焼けるかと思った。又新見附の辺りからも焼けて来ていると云う事であった。表を焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える」(内田百閨w東京焼儘』)と文豪が体験した3月10日だが、九段近くの百闢@とは違い、浅草、本所、深川など下町一帯は修羅場と化していた。その悲報はやがて伝わり、「大正十二年の大地震の時よりは遥かにひどいと云う話である。道ばたに死骸がごろごろ転がって、川にも一ぱいに浮かんでいると云うのは、当時その光景を自分で見ているから、話を聞いただけで古い記憶を彷彿させる。地震はその時だけですんだが、空襲はこれからまだ何度繰り返されるか解らない」と書くに至る。
関東大震災との比較は、その後の戦災復興計画に関連して論じられた視点だが、市民的感覚でも、あの地震の再来かと思わせる惨事が「何度も繰り返される」のだった。その後「東京大空襲」と言われるのは、この3月10日の空襲のことで、低高度の、夜間の、民間人を狙った焼夷弾攻撃は、それまでの空襲とは規模も被災もまったく質の異なるものだった。米軍がこの日を選んだのは、日本陸軍記念日だったという説もあるが、この日を境に日本の主要都市は焦土にさらされていくのだった。
当時の警視庁調査によると3月10日は、死亡8万3793人、負傷者4万0918人、被災者100万8005人、被災家屋は26万8358戸に及ぶ。そしてその後も空襲は続き、3月から5月にかけて東京市街地の50%が焼失してしまったという。
▲復興都市計画区域 |
だが、この戦火の中、すでに戦災復興計画が検討されていたというから驚く。1943(昭和18)年に内務省国土計画課長に就いた大橋武夫は、本土空襲の開始に伴い、負けても勝っても日本国の復興が必要になると考え、課内で検討を始め、1945年春までに戦災復興大綱をまとめていたという。東京大空襲の最中も、復興計画作業が動き出していたのだ。こうした先を見据えて国土を考え、手を打つ力があったからこそ、日本は敗戦の焦土から短期間に立ち直り、奇跡の経済成長を遂げることが出来たのだろう。
そして終戦。早くもその年の12月30日には「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定されたが、この素早さも大橋武夫の下準備があったからこそであろう。
この基本方針は、土地利用計画の考えを初めて導入、個別整備ではなく、総合計画として復興する考えを打ち出した点に特徴があった。防災や美観を考え将来需要にも考慮した街路計画、グリーンベルト指定という発想も新しいものだった。そして事業手法としては羅災区域全体にわたり区画整理を実施するように指示している。
東京都の対応は早かった。内務省の大橋チームのブレーンだった石川栄耀が都の都市計画課長に就いており、戦前の東京緑化計画、皇都都市計画、防空都市計画に関わったノウハウを生かして、1945年12月にまとめられたのが、石川プランと言われた「帝都復興計画要綱案」だった。
この計画は、東京区部の人口を350万人とし、そのために周辺の衛星都市や外郭都市を強化して東京への流入を阻止するという、都市構造全体から俯瞰した壮大な発想を持つものだった。100mの広幅道路、区部の34%を覆う緑地地域、大学誘致を兼ねた風致保存の景園地指定、都知事の告示で地区用途を指定する行政主導のまちづくり、将来の高速道路用地も兼ねた防火区域のグリーンベルトも計画された。焼け跡の東京は、整然とした広大な道路網を持ち、まちは機能と用途が区分され、緑と文化にあふれた、夢のような都市となるというシナリオだったのである。
「全国115 の戦災都市のなかで、政府の戦災地復興基本方針を最も忠実に、大胆に、そしてロマンチックに採用したのは東京の復興計画である。しかし、全国115 の戦災都市のなかで、復興計画の実現化に最も失敗した都市もまた東京である」(越沢明『東京の都市計画』岩波新書)と、後に酷評される結果となる。越沢は、石川プランを克明に紹介しながら、その一つ一つについて「しかし、このような計画はまったく実現しなかった」と断罪するのだが、当時の都市計画の行政を見ると、その挫折を簡単に断罪するのは酷のような気もする。
「小野 当時、土地区画をできる人がいなかった。(略) 大野 土地区画整理の人が疎開してバラバラになってしまった。敗戦となったとき復興の土地区画整理をやらねばならぬ、そのためにはバラバラの人を集めねばならぬ。(略)当時建設省は東京の土地区画整理に力を入れていたが、この人達は俺達がやらねば東京の土地区画整理はできないといって集まった。都市計画部でそれらの人達を引き入れたかったが、自分はそれを断った。都市計画課が事業部門をもつのはよくない、それは本当の計画ができないからである」( 東京都建設局『蘇った東京』)
当時の関係者による座談会では、このように土地区画整理を進めるにも、ノウハウを持つ人材も、それを実行する部隊もいなかった。専門の技術者が不足し、にわかに講習会を開いたり、先輩から1日も早く盗めという檄が飛んだり、現場の混乱ぶりは極限にあった。
こうした混乱に加えてさらに決定的な問題が降りかかってきた。GHQが1949(昭和24)年4月に打ち出したドッジラインである。進行するインフレ防止策として緊縮財政、超均衡予算を断行せよという命令であり、巨大な予算を伴う戦災復興計画は極度の圧縮を余議なくされる。GHQ側には、敗戦国のくせに大そうな戦災復興計画を立ててけしからん、という見方もあったようだ。
1950年3月、東京の復興事業の決定区域は2万0165ha から4958ha に大幅削減され、さらに国庫補助の対象になった1652ha のみ事業を続けたが、後は事業中止となっていく。人が欠け、組織の混乱があり、そして資金が断たれてしまったのだ。だが、それでも池袋、新宿、渋谷、五反田、蒲田、亀戸、錦糸町などでヤミ市を一掃し、駅前広場を整備し、駅周辺の街路を拡幅したことは、制約下にあった戦災復興事業の成果であったし、ここでの苦労は、戦後の区画整理事業を発展させる契機になったともいえる。
当時の東京都知事、安井誠一郎に『東京私記』という著書がある。初代都知事として3期12年にわたる「安井時代」を築いた大物知事にしては、ざっくばらんな心情が描かれていて興味深い。
「東京の戦災復興を論ずる場合に、よく震災のことが引き合いに出される。くらべてほめてくれるのかと思うと、きまってこちらがけなされるのだからやりきれない」
震災時と違う事情として、予算を始め援助がなく、東京へ「難民のように」人が流入してくることを挙げて、「震災計画にならうな」と考えたという。「机の上でどんなみごとな復興計画の作文をしてみたところで、手の施せる現実ではなかったのである」「これ以上のムリを都民に強いる施策はあとにまわそう、と部内を説いて、あまり見栄えのせぬ復旧に精をだしてもらった」と記述している。
こうして壮大な復興計画は、繁華街、駅前の「復旧」へと転換したのだが、それが時代と現実の制約であったかも知れない。
その後、東京は高度経済成長の軌道に乗って都市としての発展を遂げていくのだが、残念ながら都市計画は後追いとならざるを得なかった。首都圏整備法と首都圏整備計画、首都道路建設、東京オリンピックに伴う都市改造、新宿副都心構想、臨海副都心構想、バブル崩壊と時代は転換していき、そして2006(平成18)年12月に「10年後の東京〜東京が変わる〜」が策定され、実行プログラムが毎年明らかにされている。そこでは、東京らしい美しい都市景観、環境に優れ、災害に強い都市づくり、都市間国際競争に勝つインフラ整備などを目指してまちづくりが取り組まれている。巨大都市東京のまちづくりには、ビジョンと政策力と財政とが必要で、それらのバランスが取れたものであることの重要性を、60年以上も前の、戦災復興計画の顛末は教えているのかも知れない。
▲昨年3月10日の「東京都平和の日」式典(東京都提供) |