[キーマンが語るトウキョウ地図 第2回]リバーフロント整備センター理事長 竹村 公太郎氏「原点は江戸にあり」

■ 東建月報2011年5月号掲載

省エネ、循環インフラの原点は江戸にあり

連載シリーズ第2回は、国土交通省元河川局長で財団法人リバーフロント整備センター理事長の竹村公太郎氏。歌川広重の浮世絵を、都市・江戸の謎解きの「記録写真」として、その絵図から、鋭い発想で日本人の英知、文化とまちづくり、そしてインフラの意義を解読する。「溜池にはダムがあり100万都市江戸の水ガメがあった」「名画〈大はしあたけの夕立〉にはエネルギー源の石油タンカーが描かれている」「吉原遊郭通いの男達が日本堤の踏み固め役と監視人にさせられた」という持論を展開し、日本人の「詰め込む」「勿体ない」という日本国土から生まれた価値観がDNA となり、今日の省エネ、コンパクトシティー、循環システムにつながっていると説く。東京が、日本が世界の中で、独自の文化を持つ都市として持続可能性を求めるなら江戸に学べ、歌川広重を解け―。そのユニークな竹村インフラ論を聞いた。 (このインタビューは、東日本大震災発生前の、3月11日午前に行いました)


竹村公太郎氏

財団法人リバーフロント整備センター理事長
竹村 公太郎
koutarou takemura

(たけむら・こうたろう)1968年東北大学工学部土木工学科卒業、70年同大学院修士終了後、建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。2002年に退官、04年から現職。ほかに非営利特定法人日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、東北大学客員教授も。工学博士、神奈川県出身、65歳。著書に『日本文明の謎を解く』(清流出版2003年)、『土地の文明』(PHP 研究所2005年)、『幸運な文明』(PHP 研究所2007年)、『本質を見抜く力(養老孟司氏対談)』(PHP 新書2008年)、『小水力エネルギー読本』(共著、オーム社2006年)など。

皇居景観にまちづくりの日本文化がある

――現在の東京の都市としての魅力をどのように考えますか

「民族学者だった梅棹忠夫さんは、文明というのは画一的に同じようになっていくが、文化は分裂しながら個性的になる、と言っていた。世界の都市は文明化することで、例えばニューヨークと同じようなまちになっていく。東京という都市を考えた場合、世界の都市にはない、文化都市としての象徴がある。その代表的な景観は皇居だと思う。東京のど真ん中に、堀に囲まれた、森と緑の静かな空間があり、そこに国の象徴としての天皇が住んでいる。このような都市は、世界広しといえどどこにも見当たらない。日本の文化がそのまちづくりに息づいていると思う。1603年に江戸幕府が開府した時、江戸の人口は約100万人で、当時の都市の中ではパリ、ロンドンよりも人口の多い世界一の都市だった。それから400年以上を経て、江戸、東京、そして現在に至る中で、皆が努力して都市インフラを造ってきた。それが日本の、世界どこにもない文化を持ち、世界に発信できる都市になっていると思う。その証拠が、江戸時代の写真の中にいくつも点在している」

―江戸の写真ですか

半蔵門と濠が写し取られた「糀町一丁目山王祭ねり込」と、現在の半蔵門あたり
【図1】 半蔵門と濠が写し取られた「糀町一丁目山王祭ねり込」と、現在の半蔵門あたり(写真)

「そう。当時写真はなかったが、私の言う写真とは歌川広重の浮世絵のことだ。広重は実に、江戸の都市の秘密を記録し、写し残してくれている。広重の作品である『名所江戸百景』、『東海道五十三次』を、インフラ屋の目で見ると、そこには歴史の謎解きがいくつも隠されている。歴史というのは英語でヒストリー(history)と書くが、それは誰かが語る彼の物語、つまりヒズストーリー(his story)という語源なのだ。最古の『歴史』の著者のヘロドトスの言葉といわれている。そういう視点で広重の絵を見た時に、江戸のまちづくりの歴史の謎が様々に解ける。『名所江戸百景』で最初に気付いた謎は、半蔵門の絵(図1、写真)だった」

「この絵を見ていると、江戸城正面の半蔵門は今と同様に昔から橋でなく土手で濠を渡り入城していたことが分かる。当時から一般庶民が土手を伝って出入りし、山王祭でも賑わっていた。だから侵入が容易な土手の造りのため、半蔵門から番町・紀尾井町の一帯は旗本屋敷が多く、警戒も厳重だった。そしてこの絵を見ているうちに、赤穂浪士がこの地帯に16人も一緒に潜伏して吉良討ちの機会を窺っていたという史実に、ある疑問が生じた。赤穂浪士の討ち入りは徳川幕府の支援あるいは黙認があったのではないか、そうでなければ、警戒の厳しい城下での集団の潜伏は、どう考えてもおかしいと考えた。その考えは、徳川家康が創建したという大事な泉岳寺に討ち入りを果たした47士の墓があることに連想され、徳川幕府が政策的にプロデュースした忠臣蔵テーマパーク論という私のストーリーへと展開することになった」

溜池には江戸の巨石水ガメがあった

「虎の門外あふひ坂」図
【図2】 「虎の門外あふひ坂」図

――ほかに広重の浮世絵から、江戸の都市づくりにおけるインフラ整備の様子が分かるようなことはありますか

「半蔵門の絵と同じ『名所江戸百景』の〈虎の門外あふひ坂〉の絵(図2)は、当時の水事情をうかがわせるものだ。この絵は、今も虎ノ門にある金刀比羅宮に願掛けをする職人兄弟が描かれているが、問題はその背景である。アメリカ大使館に向かう坂道が遠近法で描かれ、それに沿って滝が流れる堰提があり、その向こうが今の首相官邸あたりで丘になっている。何故ここに堰提が、そしてこことは現在の溜池ではないか。溜池という地名に当時の水インフラの名残りが刻まれているのだ。堰提は切り出した石を積んで練り固めた、ダムの専門用語で言えば巨石ダムであり、描かれた周囲の構図から考えると高さ4mにもなると推察できる」

「そう考えた私は、実際、現在の溜池交差点に立ってみたら、堰提が〈外堀通り〉になっている。ここで濠の水を堰で溜めて飲み水の供給源にしたのだ。それは確信となった。1653年に江戸の水ガメ・玉川上水ができる半世紀前、小石川上水(後の神田上水)と共に100万人都市・江戸の市民の水需要を支えるものとして、広重が描いた虎ノ門堰提による溜池があったことに思い至った。溜池交差点の下に埋められた虎ノ門堰提、それが江戸の水インフラのヒストリーであり、東京の水インフラの原点なのだ」

竹村公太郎氏

「徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝利したが、天下の中心だった大阪城や京都を拠点とせず、1590年に秀吉によって流された江戸にすすんで戻り、首都建設のための壮大なインフラ整備をする。それは江戸が水と緑に恵まれ、エネルギーも含め都市機能が自己完結するところだと考えたからだろうと思う。木材にしても関西では寺院の造営や改築が相次ぎ、周囲はハゲ山ばかりになっていた。東大寺を再建するために山口県から木材を運んで来たという記録もある。一方、江戸には緑豊かな秩父の山々があり、木を伐採し、荒川―隅田川の水ラインで運搬すれば建築資材にはこと欠かない」


「大はしあたけの夕立」には石油タンカーが描かれる

「ゴッホも模写したことで有名な〈大はしあたけの夕立〉(図3、写真)は、今の隅田川・新大橋の雨に煙る風景画だが、私は橋よりも背景の川に浮かぶ筏(いかだ)に着目する。ああここに江戸の石油タンカーが描かれているのだな、と考える。筏で秩父から伐採した木材を木場など製材場に運んでおり、豊富な木材で家を建て替え、古い廃材を燃料にする。広重の絵の一コマには、江戸のエネルギー流通の秘密がものの見事に描かれている」

「家康は、関ヶ原の決戦に勝利した後、日比谷の埋め立て、利根川東遷などインフラ整備に本腰をいれる。利根川東遷とは、江戸湾に流れていた利根川を銚子へ導水し、江戸を洪水から守り、同時に関東の湿地帯を乾田化したものだ。利根川は坂東太郎という暴れ河川だったが、これにより、幕府の治水政策は隅田川への選択と集中ができたわけだ。そして、同時期のインフラ整備の重要なものの一つが〈虎の門外あふひ坂〉に描かれたダムづくりだった」

――溜池のダムが消えたのは、戦後、戦災の瓦礫処理で都内の河川を埋めた時ですか

「いや、その時ではなく明治時代とみられている。明治に入っても玉川上水と虎ノ門堰提は東京市民に水を供給し続けた。だが明治の急速な近代化は、東京の人口流入を招き、その急増は都心の溜池の水質を悪化させた。1898年に新宿に淀橋浄水場(その跡地が現在の都庁舎一帯)ができると、多摩川の水が淀橋浄水場に送りこまれるようになった。比例して溜池の水質はさらに悪化し、悪臭を放ち、溜池は少しずつ埋め立られて、虎ノ門堰提も役割を終えたようだ。

現在の新川あたりを描いた「大はしあたけの夕立」と現在の同地(写真)
【図3】 現在の新川あたりを描いた「大はしあたけの夕立」と現在の同地(写真)

吉原に通じる日本堤は水インフラの監視塔だった

――以前の竹村理事長の講演で、家康の江戸改造の一つに日本堤と吉原の移転があったという指摘があり、いまも印象に残っています。あの見解も広重の絵を解 読したことによるものですね。

当時の賑わいを伝える「よし原日本堤」と現在の同地(写真)
【図4】 当時の賑わいを伝える「よし原日本堤」と現在の同地(写真)

「その絵は〈よし原日本堤〉(図4、写真)だが、この絵を見ていて、広重はぞろぞろ多くの人々が列をなして歩いているところを描いている。そして彼らの向かっている堤の向こう側は、林に囲まれた屋根が見える。これがちょうど、遊郭の吉原にあたる。元々、吉原は銀座四丁目の三越デパートのあたりにあった。1657年正月、本郷で発火した火事は強風にあおられ神田、日本橋さらに浅草まで焼き尽くす火災となった。これが「振袖火事」と呼ばれるものだが、その復興のため俎上にあがったのが、風紀上問題となった吉原移転である。問題はその移転地が何故、浅草に隣接した日本堤の先になったのかである」

「当時の日本堤は、墨田提、荒川提、熊谷提と連結し、墨田川をぐるりと囲み、この一帯で墨田川の洪水を溢れさせ、そのことによって江戸に洪水が及ばないようにしていたと考えられる。今日でいう遊水地システムの、重要な環が日本堤であり、それが江戸の街を洪水から守る生命線になっていた。そして、その機能を遂行するためには、日本堤の維持管理をしっかりすることが重要だった。幕府は、浅草から吉原へとせっせと通う男たちの足で日本堤を踏み固め、強固にし、かつ24時間の監視体制を構築したのではないか、というのが私の考えだ。それを立証するのが、広重の描いた日本堤であり、夜にもかかわらず列なして歩む江戸市民の姿なのだ。インフラ屋の私から見ると、江戸幕府が下部構造だけでなくソフトウェアも取り込んだまちづくりをした、ということがよく分かる」

縮み志向が省エネと持続可能のまちづくりの原点

――1枚の浮世絵から、そこまで分析するのは驚きですが、言われてみると、なるほどの一言です。ところで、これからの東京はどうあるべきか、についてのお考えを

橋を渡る大名行列「日本橋朝の景」
【図5】 橋を渡る大名行列「日本橋朝の景」

「今日は広重の絵に触発された話をしてきたので、それで一貫させると、広重の『東海道五十三次』の起点となる「日本橋」の絵(図5)を見て、日本人の特性に思い当たった。参勤交代で国元に帰る大名行列の先陣の足軽が、下を向いて、重い荷物を担ぎ、長旅に耐えるように歩いている、有名な絵だ。この絵をじっくり観ているうち、日本人は狭い国土の中を歩いて移動していたから、荷物をいかにコンパクトに詰め込むかに習熟し、そのDNA が今日まで受け継がれている日本人の特性になっていることに思い当たった。スモールイズビューティフルである。詰め込むことが価値だから、それができないことを〈つまらない〉と否定的に表現する。詰め込み、小さくすることで世界のトップ技術分野を切り開いてきた。小型自動車、ウォークマン、カラオケ、カップラーメン、折りたたみ傘、扇子、それらは広重〈日本橋〉に原点がある」

「今から20年前に李御寧(イ・オリョン)著の『「縮み」志向の日本人』(講談社学術文庫)を読んで、韓国の人が何故日本人は小さく縮むのが好きなのか不思議だと、疑問視していることが分かった。中国も韓国も大きいことはいいことだ、という志向がある。中国から伝わった美という言葉は、羊が大きいのが美だとしたのが語源である。大きい羊は大量の肉、毛、ミルクをもたらすから美なのだ。ところが日本は彼らから見れば何でも縮ませ、小さく軽くしようとする。それは狭い国土の中で、車でなく歩いて移動するところから身につけた価値なのだと思う。この価値観を都市のあり方に展開すれば、省エネルギーやコンパクトシティー、エネルギーの循環ということになる。そうしたことを大切にするのが、これからの東京の日本独自の持続可能なまちづくりの原点だろう思う」

「勿体ない」の常套句に循環思想が

「日本人がよく好んで言う言葉に、勿体ないということがある。私も家内に、勿体ないことをして、とよく小言を言われるし、何かというと勿体ない、勿体ないと年がら年中口癖のようになっている。この勿体ないというのは、物体がないが語源で、モノが変化して循環してなくなることを意味する。私はその言葉に循環の思想が込められていると思う。広重の新宿を描いた絵は、下から見上げた馬を描いた大胆な構図の作品だが、人通りも少ない宿場町に馬糞が散在している。これは子供の目線で構図を描き、馬糞をかき集め、それを売って小遣い稼ぎをする生活を暗示したものだ。江戸時代には馬糞は燃料になり、肥料になった。蚕から着物をつくり、そのお古でふとんカバーや座布団にし、それも古びると鼻緒や雑巾に使い、それも使えなくなると燃やして灰にし、それを桑の木を育てる肥料にし、桑の葉を食べて蚕が育つ。モノが循環して物体がなく、勿体ないという価値観で自己完結する社会を造ってきた。東京のまちづくりにも、エネルギーやモノを循環させ、持続可能なシステムを導入する知恵が求められているように考える」

――現状の東京の問題点はどう考えていますか

「これは東京だけの問題でなく、日本全体に言えることだが、成熟し、飽和状態になった日本社会は新しいイノベーション技術を受け入れがたくしている。これを打開するには、イノベーションの育つ海外へ出て、新しいシステムをつくり、そして21世紀の黒船となって帰ってくるべきだと思う。民主党のプロジェクトチームでも呼ばれて、意見を述べたのだが、日本がナショナルフラッグの下に一つになり、国際競争に勝たなければならない。そのためには国内案件では競争性を高めるため談合してはならないが、国際案件では日本企業群は談合をしてでも結束すべきだと提言した。競争するライバルは海外チームなのだ。そのための日本の結束は絶対必要だ」

図6
【図6】

――最後にリバーフロント整備センターでのお仕事について

「いま取り組んでいるのは地下水の見える化だ。日本の国土の下に毛細血管のように地下水が流れている。これを図示化(図6)する技術を開発している。このような見える化により、どのようにして地下水利用を規制するか、あるいは利用できるか、そうした防災・減災の政策展開への協力をしていきたい」

――ありがとうございました。


表紙の写真は、竹村理事長が東京の中で最も好きな景観の一つとして挙げた、レインボーブリッジから見た東京沿岸のウォーターフロントです。