都市のにぎわいへの高い可能性を秘めたウォーターフロント。港湾インフラが都市開発をリードする都市のにぎわいへの高い可能性を秘めたウォーターフロント。港湾インフラが都市開発をリードする

■ 東建月報2011年6月号掲載

一刻も早く、官民挙げて防災・減災都市の実現を

今月のキーマンは、環境革命を唱え、地域計画や防災・減災公園などの各種委員会で活躍している造園家であり、東京都市大学教授の涌井史郎(雅之)氏。3月11日発災した東日本大震災についても、かねて主張していた分節自律型の地域が相互連携した国土計画論を「もっと声を大にして説くべきであった、悔やまれる」と語る。東京の都市づくりにおいても、高容積の建築群に集約し、緑のオープンスペースでユニット化して、それらの自律ユニットをネットワークで結ぶという都市構造改革を提案する。その一方で港湾インフラと都市計画を組み合わせた臨海再開発により面白く活況のあるまちづくりも志向すべきだと言う。東京直下型地震の危険に警鐘を鳴らし、防災・減災都市をつくるために官民挙げて取り組め、と力強く語る同教授に聞いた。


竹村公太郎氏

東京都市大学・環境情報学部教授(造園家)
涌井史郎
Shiroh Wakui

(わくい・しろう)1969年東京農業大学農学部造園学科出身。東急グループの造園・植栽会社叶ホ勝エクステリアを創設。造園家 として多摩田園都市、全日空万座ビーチホテル、ハウステンボス、東急宮古島リゾート等のランドスケープ計画やデザインを手掛ける。現在、(社)国際観光施設協会副会長、(社)日本造園学会顧問、桐蔭横浜大学特任教授、中部大学中部高等学術研究所客員教授、東京都市大学教授をつとめる。中央環境審議会委員。著書に『景観創造のデザインデベロップメント』(綜合ユニコム1991年)、『景観から見た日本の心』(NHK 出版2006年)など。

――東京の都市としての特徴についてどうお考えですか 

「西洋のまちづくりでは、神の名のもとに自然と人間生活とを切り離し、城壁を設け、壁の中の都市を稠密にさせて、自然は壁の外へ区分し、配置してきた。人間は神の子として、神に似せて創られたものであり、自然は目下の存在という思想だった。それに対し、東京を始め日本の都市には自然が入れ子の構造のように入り込んでいる。自然を入れ子のように取り込み、ゴミ、糞尿までエネルギーや肥料として吸収し循環させる〈まわし〉という発想があった。使い回し、造り回しという言葉は、その思想の表れである。江戸の川柳に、〈店たな中じゅうの尻で大家は餅をつき〉というのがあるが、これは糞尿を〈まわす〉ことが餅をつけるほど安定した収入になるという意味だ。庶民生活の中に自然のリサイクルが根付いているわけで、このような江戸は、世界の環境都市のモデルだと言える。これからは自然力を想定した枠組みで都市を創造することを考えるべきである」

江戸の名残とマッカーサーの思惑が混在

「日本は古くから船で物流をまかなってきたが、近代になって鉄道が整備され、それでも船と鉄道が主流だった。戦後になってマッカーサーがGHQ 司令官として日本にやってきて、道路の整備に乗り出した。大量のトラックやジープを持ちこんだが、駐車場も道路も狭くて使えなかったからだった。それで今も、マッカーサー道路という呼称が残っている。戦後の道路整備は、鉄道と道路に沿って都市をスプロール化していくことに拍車をかけた。東京圏が40km〜50kmの外延に平面的にアメーバのように広がっている。こんな都市構造は、世界に例がない。江戸の都市モデルの名残とマッカーサーの思惑とが混在して、東京の今日の姿がある」

――世界の都市の中でも、東京には魅力があるという評価が高いのでは

「森記念財団の世界都市総合力2009年ランキングでは、東京はニューヨーク、ロンドン、パリに次いで4位となっている。別の調査結果では、東京が第1位を占めているものもある。その理由は、東京には何でもあり、文化や芸術、それにエンターテインメントにあふれ、伝統と近代が混濁していることが魅力になっていると考えられる。そして安心で安全な都市だと言われてきたこともプラスになっていた。だが今回の東日本大震災は、その安心・安全の神話を根底から突き動かした。安心・安全と言われてきたことは果たして本当なのか、東京は、都市のあり方においてその問いが突きつけられていると思う」「未来性の限界が予感される中で、東京がどこにいこうとしているのか、その未来への答えが見えていない。昨年、NHKのドラマ放映の影響もあり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』が話題となった。坂の上の雲とは、産業革命の時代のことで、すべてが無限大に発展するという価値観があるから坂の上の雲と表現できた。だが、私が提唱している環境革命の視点は世界が今や産業革命以来の環境負荷により、『坂の下の泥沼』に突き進む状況下にあるのだと言いたい」

環境革命は「坂の下の泥沼」回避の手法

――環境革命とは、ポスト産業革命でありながら、産業革命と対立するのですか

「産業革命下の社会は、究極的にエネルギーとエコノミーの相関で成功したが、エコロジーの破綻により3つのEのトリレンマ(3つのジレンマ)をきたしている。環境革命とは、そのトリレンマを解決するもので、エコロジーとエコノミーの良環境を生み出し、コミュニティー重視の、自律的分節型の社会構造を志向するものだ。だから対立ではなく、むしろ解決への方策である。産業革命を支えていた、地球の容量、地下資源、労働力、土地などあらゆるものが限界を露呈している中で、われわれの計画論の読み込みは、バックキャスティングにある。限界が明らかな未来に対して、どうバックキャスティングするのか、坂の下の泥沼に落ちないようにトラバースしていくのか、という方法論である」

――環境革命に転換していく中で、東京はどんな姿になっていくのですか

「環境革命は、有限な地球の資源、特に生物資源を恒常的に未来の人々に対し分配が可能であるような社会システムを構築することにある。自然の自律性を損なわない最適規模を発見し、高効率で恒常的なユニットとして都市や地域をとらえることだ。それは豊かさを求めていた時代から、豊かさを深める時代への転換と言い換えてもいい」

災害、環境リスクに弱い都市構造

 「東京が近代都市として発展してきた中で問題なのは、巨大、集中、公益という、産業革命的な概念と手 法で成長が遂げられたことだ。電力は、電力会社に一元化され、上下水道も公益事業として集中管理されている。そして今回の東日本大震災で証明されたことは、環境リスクや災害に対していかに弱い都市構造となっているかということだ。荒川上流の浄水場が放射能汚染されれば、東京は一発で全体汚染されてしまうことも明らかになった。戦後の道路インフラにより50km圏にスプロール化され、伝統的戸建て木造家屋に代表される生活空間を乗せた二重構造のままの都市では、大災害に対して極めて脆弱であると言わざるをえない。産業革命下の前提であった広域・集中・巨大・高速という呪縛から解放され、適正・分散・スローという環境革命の価値観で、東京を見直す必要があるのではないかと考える」

涌井氏が提唱する環境革命下の地域構造
▲涌井氏が提唱する環境革命下の地域構造

「私はこれまで地方計画について、集約・集権的で広域化だけを目指す計画を否定し、それに対して分節自律型のコンパクト・シティを提唱してきたが、東京についても、同様の発想から都市改造を考える必要がある。高容積な建築群を広大な緑地が囲み、地区ごとの特性に応じて分節化されているようなユニットに集約する。その緑地は景観性や生物多様性に貢献するだけでなく、分節の緩衝帯となり、分節ユニットごとに濃密なコミュニティやエネルギー、さらに廃棄物さえも自律的に回収できる構造にする。そうなれば、仮に大災害が発生しても、自家発電や汚水浄化などにより、ユニットごとに発災から生活再建までの期間、持ちこたえることができる。一つがダメになっても、もう一つがフォローし、ダメージのリスクをコントロールすればいい。この考えは、現に米国のFEMA(連邦緊急事態管理庁)が採用している緊急事態に備えた危機管理手法でもある」

コンパクトに集約させ、港には賑わいを

「だから50q圏に水平に広がった都市をコンパクト・シティに集約し、ユニットで自律的で自己完結型の構造にし、それをネットワークでつなぐ、東京をその方向にもっていくことが極めて重要だと考える。ただしそれだけでは、どのユニットも画一的で、つまらない都市になる可能性もある。やはり都市の面白さは、人が集うエンターテインメントや賑わいにある。その意味で海外の活況を呈している都市を見ると、シンガポール、バルセロナ、ボストン、フィラデルフィア、香港などすべて陸上と海岸線の境界が楽しい、エンターテインメントの空間となり、景観にも優れた街が形成されている」

「東京の場合、海路や河川の流通が中心だった歴史もあり、臨海部は工業地帯となってきた。それは都市計画と港湾整備がないまぜになっていて、港湾インフラが都市開発をリードするという思想や行政手法がなかったことにも一因がある。都市として一番可能性のあるウォーターフロント一帯を、国際的にも楽しく、若者がいつも集まり楽しめる地域に大胆に再開発すれば、東京はもっと個性的で活力のある都市になるだろう」

――涌井先生が超高層ビルの推進者とはちょっと意外な気がしますが

「都市の中でいかにオープンスペースを確保し、これを緑化するのかが、造園家としての私のスタンスだ。東京のような都市でオープンスペースを確保するには、高容積の建築群によるコンパクト・シティ化が最も現実的である。東日本大震災に関連して、4月に減災都市・防災都市への提言をまとめたが、この中でも、空に伸びる高さの都市構造を進めるべきだとしている。その論拠は、空こそが緊急時のヘリボーン作戦に有効であり、特に超高層のヘリポートの機能性は救命・救急や救援物資の輸送に効果的だからだ。そして超高層によって得られる地上の緑は、発災時に最も有効な防火区画帯となり、平時には住民や会社員が集うコミニュティの中核的空間となる。阪神淡路大震災の際に、大黒公園の緑地が防火で果たした役割を見ても、大きな緑地空間は防火・避難経路として最も有効な空間となる。これらをユニットにして、後はネットワークで結ぶことで、省エネルギー環境の実現が可能になる。国際間の都市間競争という現実を勘案した時に、治安はもとより自然災害に対して安心・安全な都市という評価を獲得しなければ、国際的評価の上位になることはできないだろう」

――今回の大震災は、都市やまちづくりに対しても大きな教訓を与えたといえますね

涌井氏の環境プランに沿って緑と共生する「大橋ジャンクション」の完成イメージ
▲涌井氏の環境プランに沿って緑と共生する「大橋ジャンクション」の完成イメージ (提供:首都高速道路株式会社)

「今回の大震災・津波・原発事故に直面している中で、考えたことがある。それは9・11と3・11は通底しているということだ。あの9・11とは世界文化の多様性と米国の覇権主義との衝突とも見ることができる。グローバルスタンダードの名のもとにモノカルチャーを押し付けることへの、多様性からの反発でもあった。アメリカは、アフガンやイラクへ侵攻するが、いずれも成功していないのは、多様性に立脚しようとしないからだと思う。そして今回の3・11は、自然と人間の信望するテクノロジーの確かさとの衝突だった。奇しくも二つの11は、人間が未来に対して豊かさを深めるために何が必要なのかを示す、神の啓示だったかも知れないとつくづく思う」


大風呂敷もっと広げて

「帝都復興を行った後藤新平が偉大だったのは、復興計画をまとめるに当たって、関東大震災と東京焼尽の被害を詳細に調べ、焼け残った所が寺の境内と公園であることに着目し、防災空地を最大限取り入れ、三十三間道路のような拡幅道路も整備した。帝都復興計画において大風呂敷と言われたが、未来への大風呂敷を広げたわけで、後世ではその主張が正しかったと惜しまれている。後藤は、その後、満州国において大風呂敷どおりの都市計画を実現した。そのまちづくりは、今日でもなお、中国東北部の貴重な社会資本となっている。私は、大風呂敷で結構、もっと大きな発想と未来志向で風呂敷を広げたまちづくり論をたたかわせよ、と言いたい」

復興計画は社会生産ランドスケープで

――東日本大震災の被災地では復興計画が始まりますが、ご意見は

「今回の震災を省みて、これまでの主張が誤りでなく、もっと声を大にすべきだったと悔やまれてならない。結論から言えば、分節自律型の地域を相互に連結した国土づくりをめざすべきだということに尽きる。まず、国は早急に「東北・関東被災地区復興特区」を政令で定め、平時の法や条例の手枷足枷を外した、超法規的に処置が可能となり、円滑な復興が図れるように定めるべきだ。次に、特区内の復興マスタープランを、国、県、市、町村と協議して、エコロジカルな単位を念頭に、自然に地域住民に受け入れられる風土性にあふれた地域ごとの計画を深化させる。この場合のエコロジカルな単位とは、江戸時代の藩は300余の流域界と一致させたもので、それが小単位・自己完結型の生態学的社会生産ランドマークと言えるわけで、この廃県置藩的ユニットを想定している」

[被災地域では、産業優先の思想から脱却し、生活環境重視型を復興の基本思想に据える。被災の最大不幸を、世界に先駆けた未来への礎とするためにも、地域の自然特性との共生、資源やエネルギーの自律的循環を具現化し、その一方で、地域住民が誇れる社会生産的ランドスケープを維持するためにも、農林水産を流通させるシステムによって成り立つ生態環境地域を具現化すべきだと思う」

――最後に東京の防災・減災のためになすべきことを

 「内閣府がまとめた東海地震被害想定についての資料によると、最悪のケースで46万棟の建物倒壊、190万人の被災民、37兆円の被害想定額が掲げられている。東海沖地震ですらそうした想定があるからして、東京直下型ではさらに甚大な被害が想定される。世界の陸地面積のわずかに0.25%しかないわが国が、世界で起きているマグニチュード6以上の地震の2割を占めている。この現実を直視して、防災・減災都市の実現に一刻も早く官民を挙げて取り組むべきだ」

――ありがとうございました。


表紙は、涌井氏が「あれが世界中の都市でどこにもない、東京の景観」としてあげた高層ビル群と緑地とのコラボレーション。「明治神宮の森だって70年前に全国から集められた献木で造園したものだから」とも。