あなた街の「東京遺産」を探そう(1)

東京のまち歩きが、ブームになって久しい。街角の建物、水辺、寺院、古民家、インフラ、公園などの一つひとつが、その地域の歴史であ り、文化であり、記憶である。東京の街は、江戸から東京へ、日本の都市の中で最もドラスティックに変化し、同時に歴史を凝縮させてきた。だから、そこに残された「東京遺産」には、どこにもない、独特の面白さがあり、想像力をかきたてるのだ。今月号から始める特集シリーズは、東京の街を地域ごとに探訪し、その地域で育まれている過去と今日を見てまわり、地域の今昔物語を浮き彫りにしようというもの。第1回は、広大な西多摩地域で、40 数年ぶりに動き始めた駅前再開発も浮上している「青梅市」を訪ねてみた。

西多摩地域は東京の最も奥まった懐とも言うべき地域で、東京都西多摩建設事務所の所管にあたる。4市3 町1 村(青梅市、福生市、あきる野市、羽村市、 奥多摩町、瑞穂町、日の出町、檜原村) の面積が573km2あり、これは東京都全体の26%、東京23区(622km2)に匹敵する広さだ。都心寄りの東部地域で は急速な地域開発が進んでいるというから「百聞は一見にしかず」、とにかく出かけてみることにした。 某月某日、中央特快で青梅へ向かう。立川駅を過ぎると、各駅停車になり、電車もワンマン運転となり、ボタンを押さないと、ドアは開かない。乗り降りする乗客も老夫婦、子連れのお母さん、高校生などローカル色が強まる。背景に山並みが見え始めると、そこが目的地・東青梅駅であった。ここから、駅前再開発計画が動き始めている青梅駅を終点に、ぐるりと市内の遺跡、街並みを見てまわろう。

勝沼城跡から一望、槌音これから

駅北口から歩いて六万薬師堂通りを左折、霞川を渡る先に光明堂が見えてきた。

光明寺の裏の傾斜地が墓地になっていて、そこを縫うように傾斜地を登っていくと、勝沼城跡(とは言っても木々がうっそうとしている丘陵地に過ぎないのだが)に入る。鉄塔が建ち、そこが勝沼城の虎口だというが、これも兵つわものどもの夢の跡。室町時代から戦国時代に多摩川上流地域を支配していた三田氏宗・政定の居城であった。その後、北城氏の家臣・師岡将影が治めていたが、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めにより八王子城に続き落城し、廃城になってしまう。

その高台に立つと、青梅から福生にかけての西多摩の市街地が一望できる。だが、残念ながらタワークレーンははるか彼方に数本だけしか見えない。圏央道などインフラ整備が進み地域開発の潜在需要は高いはずだが、目の前の建設需要はまだこれからという状況なのであろう。

成木街道 青梅線を走ったクモハ40
成木街道
青梅線を走ったクモハ40

成木街道はインフラづくりの動脈

大通りに戻り、てくてく歩くと成木街道(都道28号)にぶつかる。

慶長11年(1606)、徳川家康は江戸城大改修のため、八王子陣屋の代官・大久保長安に、青梅成木村で採れる石灰の供出を命じた。漆喰壁の材料として使うため で、御用石灰は荷駄に積まれて、成木から武蔵野台地を横切って江戸まで運ばれたという。こうして石灰運搬の道は、成木街道と名付けられ、石灰街道、白粉街道、灰汁つけ街道などとも呼ばれ、いずれも後に「青梅街道」に統一されるのである。

石灰産地の成木・小曽木は林業も盛んで、伐採した材木は成木街道から吹上峠を越え、東青梅の千ヶ瀬河原まで運ばれ、そこから筏で多摩川を下り、江戸へ運搬された。石灰と材木、まさに江戸のまちづくりの起点が、ここ成木街道である。

今の成木街道は、残土や廃棄物を運搬するダンプトラックがひっきりなしに往復する。信号が赤になると、瞬く間に数台のダンプが列をなす。残土や廃棄物 が円滑に処理されなければ、まちづくりもトンネル工事も進まない。その意味では、成木街道は、今も東京のまちづくり、インフラづくりの重要な動脈なのである。

天寧寺の施工業者、今はなし

北へ延びる成木街道から右に外れ、山間をめざして進むと、第二の目的地・天寧寺が現れてくる。総門をくぐると、清々しい檜の木立が迎える参道が続く。数 百メートル先に建つのは、重厚な山門建築である。江戸時代、宝暦10年(1760)に建立されたもので、左右に邪鬼を踏みつける多聞天、増長天が威容たっぷりに立ちはだかる。境内の、鐘楼、僧堂、中ちゅう雀じゃく門もん、そして寄棟造りの法堂、いずれも格調があり静寂な庭園に配されている。曹洞宗永平寺に属する名刹である。

平安時代の創建を再興したのは、文亀年間(1501〜04年)に、勝沼城主・三田政定だという。江戸時代には37の末寺を擁するほど栄えた。法堂は、茅葺型銅板葺きの大屋根が印象的な寺社建築である。

再開発構想浮上の青梅駅前
再開発構想浮上の青梅駅前

昭和35年(1960)に都史跡に指定され、禅堂、本堂、山門、通用門などを解体修理し、書院や茶室を新築したという。都の文化財として修理され、22年の歳月 をかけて昭和57年落慶式を行ったのだ。そういえば庭には諸堂大改修竣工記念碑が建てられていた。

どこの建設会社が施工したのか、調べてみたが分からない。住職の方に訪ねてみると、「あれは東村山の大門組という会社でしたが、その後、過剰な設備投資 のため倒産し、今はありません。残念なことです」という答えだった。青梅の「東京遺産」を訪ねて、いきなり都内建設業の厳しい顛末を知らされ、何やら複雑な気持ちになった。建設業の厳しい価格競争の波がここにも押し寄せていたのかと思うと、壮大で静かな天寧寺の威容も、もの悲しさを増加させる。

天寧寺から青梅駅方面にとって返し、成木街道を歩いていると、交通公園入口信号にぶつかった。さて「交通公園」というのは、もしかしたら、青梅線の発祥の 地が公園になっているのかも知れない、と思いつき、辿り着いたのがJR東日本・東日本鉄道文化財団の青梅鉄道公園。入場料100円を払い、中に入ると、鉄道開業時の蒸気機関車から初期の新幹線車両まで11車両が屋外展示され、子どもも遊べる遊園地仕掛けとなっている。汽笛一声の新橋〜横浜間を明治5 年に走った110型蒸気機関車、蒸気機関車の定番D51(デゴ イチ)、そして青梅線で昭和53年まで走っていたというクモハ40など貴重な鉄道文化財の車両がずらり。博物館2階には、青梅線の歴史コーナーがあった。

青梅駅前にて
青梅駅前にて

青梅鉄道の開業は明治27年

青梅鉄道立川−青梅間(18.51km)が開業したのが明治27年(1894)。当時はセメント原料の石灰石を運ぶ産業鉄道だった。明治22年に甲武鉄道新宿−立川 −八王子が開業し、25年に青梅電気鉄道鰍ェ発足、青梅まで延伸したのだ。その民営鉄道は昭和19年(1944)に奥多摩まで全線開通して、国営化される。戦後は、青梅・東京駅の直通化・複線化など、通勤電車や観光電車として発展していく。

昭和32年、計画発表から戦争をはさんで25年の歳月を経て完成した小おごうち河内ダム(重力式コンクリートダム、 堤高148m、堤長353m、有効貯水量1 億8540万m2)の竣工式典時にも、青梅線は都民の足として活躍した。ちなみに小河内ダムは、水道専用貯水池として竣工時に世界最大規模、今も日本最大級を誇る水ガメであり、渇水時の東京都の水供給源となっている。奥多摩湖はダム湖100選に選ばれている。

さて、西多摩のインフラの歴史を学んだ青梅鉄道公園を後にして永山公園通りの急傾斜坂道を下り、青梅線を渡ると駅前の青梅街道の市街地に出る。映画看板 の街並みが昭和レトロの郷愁を誘う。これも街の活性化と観光戦略なのであろう。古い映画看板の向こうに新しい高層マンションが見えるのも、新旧混合の、味わいのある景観になっている。

駅前は新たなまちづくりへ検討開始

映画看板の街並 青梅市郷土博物館
映画看板の街並
青梅市郷土博物館

青梅駅前は、約40年前に当時の石川要三市長が進めた再開発や防災街区の建築物が建ち並ぶが、さすがに老朽化をまぬがれない。かつては西多摩の中核都市として官公庁施設が徒歩圏内に集約され、商業と産業が栄えていたが、今は、街の賑わいと住宅開発は河辺駅に移っている。取り残された格好の、青梅駅前を活性化しようということで、駅周辺の地権者による「青梅駅前を考える会」が設立され、新たなまちづくりが検討されている。低層に商業施設、中層に福祉・医療機能、高層に高齢者向け住宅を配置した複合開発ビルを建設しようというもので、青梅市も2012年度にこれらの計画を後押しする考えである。駅周辺では、都市計画道路196号線の整備計画もある。街角にはその路線地点の表示があちこちに見られるが、権利変換に時間のかかる、これも息の長い事業になっている。

陽が傾いて来たが、どうしても、もう1ヵ所訪れたいところがある。駅からU ターンし、これも急峻な 坂道を多摩川方向へ降りていく。蛇行する多摩川を包むように釜の淵公園が整備されているが、その公園内の青梅市郷土博物館を訪ねた。

青梅市郷土博物館は、石器、土偶から古文書、美術品、歴史的品々まで一堂に展示してある。おりしも「青梅の獅子舞」という企画展も開催されていた。掲示さ れている青梅市年表には、昭和26年青梅市誕生、28年NHK テレビ放映、39年東京オリンピック聖火市内通過、42年青梅マラソン始まる、49年青梅市郷土博 物館開館とあり、もう一度来て、青梅の歴史にじっくり触れてみたいと思った。博物館の方に「博物館の設計者、施工者は?」と聞いてみたが、調べなければ分からないとのこと。後日「設計は市役所の人間、施工者はすぐには分からない」と連絡をくれた。

博物館にしろ、さらに近くの市立美術館にしろ、ものづくりの記録がよく見えないことが残念だ。そう思いながら、駅まで帰ると、もう、春の青梅市内はすっぽり闇に包まれていた。