「東京遺産」を探そう(2)

今月は多摩の中でも、都心に近い北多摩地域を訪れる。274.92km2の面積だが、甲州街道・中央自動車道・私鉄各線とインフラが整備されて 都市化が進み、人口も約240 万人と多い。立川、武蔵野、三鷹、府中、昭島、調布、小金井、小平、東村山、国分寺、国立、狛江、東大和、清瀬、東久留米、武蔵村山、そして2001 年(平成13年)1月に田無市と保谷市が合併して誕生した西東京と合わせて17の市から構成される。多彩で広域な北多摩の中から東村山、府中、調布を選び、「東京遺産」探しに出かけた。

北多摩は、17市がそれぞれ、個性豊かなまちづくりに取り組み、新しさと歴史が混在して魅力に富む。その中で、4月某日、出かけたのは、あの「東村山音 頭」で全国区となった東村山市である。土木学会が選定している日本の土木遺産に選ばれた村山下貯水池(多摩湖)探訪が第一の目的だ。

東村山停車場の碑が語る川越鉄道秘話

西武新宿線の東村山駅を降りると、駅前広場には、「東村山停車場の碑」がひっそり立っていた。この碑は、明治30年(1897)に建立されたもので、川越鉄道の建設秘話を伝えるものになっている。当初の川越鉄道計画には、東村山駅設置の予定がなかった。明治27年に国分寺−東村山間の工事が完成していたが、東村山の先にあたる柳瀬川の鉄橋工事が難航し、開業 は遅延必至となった。このため当初計画にはなかった東村山駅地点に仮設駅舎(久米川仮停車場)を置き、国分寺との間で開業したのだ。翌年には、川越−国分寺間が全線開通し、仮設駅は廃止されることになったが、その間に仮設駅はすでに通勤客や住民にとって、欠かせないインフラとなっており、住民から東村山駅設置運動が起きた。地元が工事資金や用地を提供することで、駅開設が実現されることになった。この碑は、鉄道が地域の発展に欠かせないことを伝えているのだ。

東京市は大正5年(1916)から市民の貴重な水がめとして多摩湖の建設を開始するが、その際も東村山駅は、多摩川からセメント・砂利などの骨材を運搬し、 現場までトロッコで輸送する拠点となる。その後、西武新宿線の整備においても建設資材の搬入拠点として活躍する。建設需要の増大は、農村地帯であった当地を市街地に発展させ、人口も急増させた。時代は変わって現在、駅の西口は、平成21年の再開発により、広場が整備され、駅直結の高層マンション・商業施設も完成した。周辺の道路整備、駅周辺の踏切の連続立体化の手続きが進んでおり、2020年代の完成が待たれている。

国宝の正福寺千体地蔵堂・耐震補強時に発掘された旧高欄(村山下貯水池)

都内唯一の国宝建造物「正福寺」には江戸職人も

駅の西口から15分も歩けば、都内唯一の国宝建造物(木造)として名高い「正福寺 千体地蔵堂」が見えてくる。住宅地に囲まれているが、お寺の敷地内は 静謐そのもので、歴史を刻む地蔵堂は木造の風格を示していた。禅宗様仏殿の代表作とされ、応永14年(1407)の建立。鎌倉円覚寺舎利殿同様、波形欄間、花頭窓、屋根の反りに特徴のある建造物である。地蔵堂本尊は、昭和48年の修理の時に、文化8年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されたというから、江戸職人が呼ばれて修理していたのであろう。

正福寺から、次の目的地である多摩湖に向かうため、そのまま西へ横断し、北山菖蒲園、八国園緑地など四季の緑を楽しみながら、西武遊園地駅と武蔵大和駅をつなぐ西武多摩湖線を潜り抜けると、広大な狭山公園に出た。緑、花々、樹木、水のある市民憩いの場所となっており、そこから築堤までの長い坂を登ると多摩湖の光景が開ける。

東京市の最古の水がめ、村山・山口貯水池

淀橋浄水場に頼っていた東京市の給水は、急速な人口増加に追いつけず、大正5年(1916)から狭山丘陵でのアースダム工事に着手、村山上貯水池が大正13 年、下貯水池が昭和2年に完成した。隣接の山口貯水池は、昭和2年着工し、同9年に完成した。後に多摩湖と呼ばれる村山上・下貯水池、山口貯水池の3つで3,435万m3の有効貯水量を提供したが、昭和初期の東京の水需要はそれでも追いつかず、小河内ダム(奥多摩町)計画が浮上するのである。

都の耐震補強工事で土木遺産が相次ぎ発掘

この難工事を担当したのは、東京市の技師、工学士の中野昇であるが、「工事ニ盡じんすい瘁シ、大正14年7月4日病没」(碑文)したという。その功績を伝える碑も公園内に建立されている。東京都水道局水源管理事務所が管理しているが、阪神・淡路大震災を機に、平成15年(2003)から平成21年まで堤体の耐震補強を行った。その時に発掘されたのが、旧堤体の高欄(欄干のこと)であり、堰堤を盛り立てるため宅部川の水を抜く排水トンネルの一部である。それらは堤体南の見晴らしの丘に、貴重な近代土木遺産として保存・展示されている。銅板丸屋根の第1取水塔、第2取水塔は湖に浮かぶ歴史のシンボルとして、今も市民に親しまれている。

府中郷土の森に復元、保存されている旧府中町役場庁舎 ・府中市・馬場大門の欅並木は国指定天然
記念物になっている(提供:府中市)・地元府中の魅力を語る土方康志第9支部長

江戸〜昭和初期の建築を復元・保存、府中市郷土の森博物館

こうして東村山市から帰った翌日、武蔵野線の府中本町駅に降り立った。そこからバスで「府中市郷土の森博物館」へ向かう。敷地13haの自然公園には、日本最大級の平床式プラネタリウムを持つ蔵をイメージした本館の他、江戸から昭和初期の建築物が移築・復元・保存されている。大正時代の洋風建築である旧府中町役場庁舎、昭和初期から100年以上使われた木造2階建ての旧府中町立府中尋常高等小学校校舎、江戸時代から続いた商家旧島田屋住宅、長屋門などを観て歩くことができる。

府中市は、律令時代に国府が置かれた武蔵国の中心で、国府の中心であることから「府中」と呼ばれるようになり、鎌倉時代には要衝地域、江戸時代には甲州 街道の宿場町、戦後も多摩の中核都市として発展し、東芝、NEC、サントリーなどの工場も古くからある。競馬場、刑務所、多磨霊園でも有名である。歴史遺跡の宝庫であり、新しいまちづくりも進み、文化施設も充実し、今も人口増加が続いている。新旧の魅力にあふれた街であり、「生活実感値」の満足度都内第1位でもあるという。

その府中を代表する建設会社・土方建設且ミ長であり、東京建設業協会第9支部長でもある土方康志氏に会い、府中の魅力を聞いてみた。

「私は府中生まれの府中育ちだから地元への愛着が人一倍ある。一番好きなところは、大國魂神社とそれに続く欅並木。住みやすく、緑も多い。東日本大震災 以降、防災面で建設業の役割が見直されているので、それに応え、発信もしていかなければならない。建設の仕事は財政面で厳しくなっているが、維持管理などに転換するよう、府中市でも求めている。市の道路等基盤管理計画策定検討協議会にも参加することになったので、意見を述べていきたい」と語る。

土方建設鰍ヘ、多摩川治水工事を基盤に成長してきた会社で本社のすぐ近くが多摩川。その多摩川沿いの土手は東京を周回する武蔵野の路(全長270q)の21コースのうちの「是正・昭島コース」の12.9qとなっている。そのコースを川上に向かって歩くと国道20号線石田大橋がある。日野バイパスの全長385mのこの橋は、国土交通省が市民から名称を公募したもの。江戸時代には「石田の渡し」と呼ばれ、多摩川洪水で日野市の石田村が国立に移住し、その地も「石田」と名付けられたことから両岸の架け橋の名に相応しいとして命名された。市民に支えられるインフラづくりの試みと言える。

石田大橋から府中駅前に戻り、土方社長推奨の「馬場大門欅並木」と「大國魂神社」を歩く。起点の府中駅南口は、デッキ、商業施設が整備され再開発を進め ているが、駅前の一団の雑居ビル地区がまだ手つかず。源頼義・義家父子が奥州平定(前九年の役)後に大國魂神社に参拝して苗千本を奉植したのが欅並木の 始まりで国の天然記念物に指定されており、長い年輪を刻む樹木が壮観だ。その並木が誘う大國魂神社は、東京五社の一つで、神社本殿が東京都の文化財建造 物。木造狛犬が国の重要文化財、木造仏像5体・古鏡4面・古写本3種が重要美術品と「文化遺産づくし」。5月の連休には関東三大奇祭の一つである例大祭(く らやみ祭り)が開催される。

武蔵国府のシンボル大國魂神社・京王線調布駅の大改造を核に進むまちづくり

駅改造核にまちづくりの調布から国立天文台へ

さて、京王線で調布駅へ急ごう。調布駅は京王線地下化を核に大改築工事中で、駅周辺も連続立体交差工 事、ビル建設が進み、機能を一新しつつある。その北口から武蔵境駅行きバスに乗り、20分ほどで国立天文台三鷹キャンパスに着く。

大正10年(1921)西浦長大夫の施工による現存最古の天文台である「第一赤道儀室」。塔躯体が望遠鏡の筒となっているアインシュタイン塔( 太陽塔望遠鏡)は、スクラッチタイル装飾のRC造、昭和5年の建設で、中村工務店の施工による。高さ19.5mで直径15mのドームを備えた大赤道儀室は、昭和元年に中村與資平(船底技師)の施工で建設され、65cm屈折望遠鏡を展示する歴史館でもある。構内には、古墳も発掘され、キャンパス全体が歴史と天文学の宝庫になっている。ちなみに、今年4月14日付の日経新聞プラス1では「見学無料親子で楽しめる施設」の全国第6位に選ばれ、「趣のある建物が多数ある」と評されている。