今月号は、第8支部のエリアである大田区、品川区、目黒区、世田谷区の4区を訪れてみよう。多摩川で川崎と接する大田区、世田谷区、それ に接する目黒区、品川区は、東京23区の南端地域にあり、それぞれ特徴のある防災とまちづくり、インフラ整備が進められている。そこに残されている歴史建築物や土木遺産を求めて、歩いてみた。

起点は、東京と神奈川(川崎)の県境にある大田区の六郷水門。最寄りの駅は京浜急行電鉄本線雑ぞうしき 色駅だが、京急蒲田駅からのタクシーが便利だ。多摩川下流には、大田区と川崎を結ぶ第一京浜国道の六郷大橋と、産業道路の大師大橋があり、六郷水門は両橋の中 間あたりの土手道にある。国土交通省の近代土木遺産リストにも掲載されている。

 明治から大正にかけて高潮や洪水の被害を受けていた同地区にあって、旧内務省が大正7年度(1918)から昭和8年度(1933)にかけて多摩川改修事業に 取り組み、その一環として地元六郷町が国の補助金を受けて昭和6年3月に完成させたのが六郷水門である。

文字通り地元一丸のプロジェクト

「国では補助金を工事費に充当して支払い、町の負担は材料と労力提供とした。地元の六郷堤外耕地整理組合は2万5000円、六郷耕地整理組合は5000円を町 に寄付した。工事が開始されると、町長は六郷水門管理者の名前で50燭光の電灯3つを現場に設置して、工事の進捗と安全を願った。その他の面でも町当局と住民は工事の完成に全面的に協力した」(伊東孝著『東京再発見』岩波新書)と書かれてあるように、地元から熱望されたプロジェクトでもあった。

東京都下水道局が昭和47年(1972)に六郷ポンプ所配水樋管を設置、下水道を整備するまでは、水門は六郷用水の末流を始め、六郷、池上、矢口、羽田の一 部地域の雨水、汚水を排除していたという。

この水門のデザインは、バットマンの仮面にも似た重量感ある、丸みに特徴のあるコンクリート造。水門下部は煉瓦造りである。職人が一つひとつ積み重ねて 仕上げたことを思うと、ものづくりを大事にした時代の面影がしのばれる。

大田区は、東京23区最南部に位置し、23区で最も大きい地域だが、羽田空港沖合を始め、埋め立てや人工島で区域を拡大してきた。人口は約69万5000人(平 成24年)。大田区のまちづくりは、大森・蒲田を「中心核」、鉄道駅周辺を「地域核」、羽田を「未来核」と位置づけるマスタープラン「おおたプラン2015」の長期基本計画で進められている。

跨線橋第1号は明治の花を宿す

さて、六郷水門を後にして、京急蒲田駅から品川区に移る。品川駅から南の品川宿方面に第一京浜沿いに歩いて約500m、京浜東北線、山手線、東海道新幹線、 横須賀線を跨ぐのが八ツ山橋である。同橋は、明治5年(1872)に、新橋−横浜間の鉄道開通に伴い架けられた、わが国初の跨線橋で、当初は木造であったが、アーチ鉄橋に架け替えられ、さらに昭和60年(1985)に現在の橋となったという。

八ツ山橋と並行して架設されているのが、京急線のトラス橋で、こちらは昭和8年4月に開通したものだ。都市化の波と再開発のまちづくりが進む同区にあ って、古くからのインフラ施設は目立たなくなるが、八ツ山橋は、建設業界の造った近代遺産に変わりはない。八ツ山橋を東品川方面へ渡ると、大輪の菊と桜の 装飾が施された親柱が記念碑のように残されていた。

品川駅から、京急線青物横丁駅で降りて、第8支部長を務めている(株)大滝工務店代表取締役会長の大滝雅宣氏に会う。  支部活動については「支部エリアの四つの区は、それぞれ町工場が多い地区もあれば、急激な再開発が進んでいる地区もある。同じ住宅地でも木造密集地もあれば、お屋敷町のような地域もある。地域事情が区でまったく違うので、支部運営はなかなか難しい」と語る。

祖父の代から災害へ備え怠らず

東大駒場は、内田ゴシックの名作品づくし(教養学部1号館)

その大滝支部長が最も心配しているのが、地域の防災対策である。「首都直下地震が発生して、5mの津波が来たら、旧品川区は全滅。当社の前の向こう通り は海抜2mだから、ここも2.5mの津波でアウトになる。大田区は木造家屋が密集し、道路幅も狭いので火災が心配。災害に非常に弱い地域であり、それだけにきっちりした防災対策と防災組織が求められる。地域の建設業の役割もそこにある」と語る。(株)大滝工務店は、創業が大正初めの老舗の海洋土木会社であり、祖父の時代から、高台に住むなどいざという時の災害に備えてきたという。「昔は本社の向こうがすぐ海で、作業船への荷出し基地を兼ねていた」とも。

その大滝支部長が推薦する東京遺産は、本社のすぐ近く、旧東海道沿いにある海照山品ほんせんじ川寺と自覚山海かい徳とく寺じ。菩提寺ではないが、地元への愛着から日頃親しむ 場所になっている。自ら案内してくれたが、門を通るにも、合掌して一礼することを忘れない。

品川寺の開創は、弘法大師空海による大同年間(806〜810年)と言われ、お寺が多い品川区でも最古の寺である。境内の樹齢400年の大銀杏も有名で、その下 の自然石には釈迦如来の種字が彫られ、光こうみょうせき明石と呼ばれている。品川が栄える江戸時代を通し、品川寺は、本尊水月観音、大梵鐘、江戸六地蔵第一番尊を寺の三 宝として「大切にし、町の人々の深い信仰と東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛された」という。

最先端シールド技術が駆使された
大動脈・世界最大最長級の首都高
速品川線本線シールド

近くの海徳寺の現在の本堂は、江戸時代の中期、寛延4年(1751)に完成したもので、品川区内でも屈指の古い木造建築物である。創建は、戦国時代の大永 2年(1522)。春の境内は「花の寺」と呼ばれるように桜、山吹、藤などが咲き誇る。訪れた日は、ちょうど祭の山車が出て賑わっていた。

品川区は人口約36万8000人(平成24年)で、台地、低地、埋立地で構成され、京浜運河など5つの運河を持つ。新幹線品川駅周辺を中心に再開発と都市化が進められ、リニア中央新幹線、新東名高速道路、首都高速品川線など交通動脈の拠点となりつつある。区内のまちづくりでは、東急目黒線武蔵小山駅周辺の約56haが動き始めている。区では、当該地のビジョンをまとめ、林試の森公園、駅前、旧平塚小学校跡地を3つの核とし、にぎわい、環境、道路拡幅、空地の確保を図る考えだ。

先を急ごう。目黒区では、歴史的建造物群の宝庫である駒場を訪れた。京王井の頭線で渋谷駅から駒場東大前駅へ。駅から降りてすぐ、東京大学教養学部のキ ャンパスが広がる。キャンパスの象徴のように建つ白いゴシック様式の東大駒場博物館、本郷の安田講堂そっくりの1号館、900番教室は、設計を担当した内田祥三の「内田ゴシック」と呼ばれる、1930年代に完成した建築群である。内田は、建築構造学の大家で鉄筋コンクリート造の礎を築いたと言われる第14代東大総長であり、内田祥哉東大名誉教授はその次男にあたる。

駒場は近代建築の歴史の地

駒場キャンパスにほぼ隣接して駒場公園があり、その静かな空間に旧前田候爵邸洋館(表紙写真)がある。玄関車寄せの扁平アーチ、三角屋根など重厚な英国古 典調の建築物で、昭和4年(1929)の完成。旧加賀前田家の本邸は本郷にあったが、関東大震災後の復興計画に伴い駒場に移すことになり、16代当主前田利とし為なりが外国要人の迎賓館のような新邸を希望し、設計を東京帝国大学教授だった塚本清に依頼した。この建物の内部も王朝風の装飾や華麗な空間で見所が多い。近くには、なまこ壁の日本民藝館、日本近代文学館もあり、建築の歴史を辿るには絶好のスポットである。

最後は世田谷区だが、オリンピックイヤーの現在、一度は訪れてみたいのが、駒沢オリンピック公園である。駒場東大前駅から渋谷駅に戻り、東急田園都市線 に乗り換え、駒沢大学駅まで。駅から歩いて15分の公園には、昭和39年(1964)に開催された第18回の東京オリンピックの施設が点在している。サッカー会場となった陸上競技場、「東洋の魔女」が活躍したバレーボール会場の屋内競技場、ホッケー会場の第一球技場など3施設、そしてレスリング会場となった体育館などが、当時の熱気をしのばせながら、市民のスポ ーツやレジャーの場となっている。

聖火を映した池に人々が憩う

東京オリンピックの第2会場となった駒沢では芦原義信設計の建築物が目を惹く。木組みを思わせるデザインの「管制塔」は会場のシンボルであり、その下に 池を設け、池のほとりに聖火台を設けた。高く掲げる聖火台でなく、人の目線に据えたところが芦原義信の設計思想だと評価された。聖火が水面に映えていただ ろう池は、今もカップルや家族の憩いの場になっていた。

もう一つ、芦原義信設計の施設は、大屋根に特徴のある体育館だが、この中には「オリンピックメモリアルギャラリー」が常設されており、当時の貴重な映像、 金メダルやユニホームなどの資料が閲覧できる。それによると、駒沢競技場全体の整備工事は、昭和36年(1961)10月から39年7月までのわずか3年足らずの突貫工事だったという。東京オリンピック全体の総事業費は1兆円で、そのうち競技場建設や大会に直接関係する費用は295億円、その32倍の約9600億円が新幹線、高速道路、東京モノレール、上下水道などのインフラに投入され、オリンピックを契機に国・都挙げて首都の都市改造を行ったという壁書きの説明を読んで、「なるほど、なるほど」と教えられる。

世田谷区では、もう1カ所、同じ田園都市線で二子玉川駅に向かった。「ニコタマ」と呼ばれる同駅周辺は再開発が進められ、ブランド店の集まったショッピ ングセンターや高層マンションが立ち並び、若者が集う新しい街に生まれ変わろうとしている。だが、駅周辺から一歩離れると、昔ながらの緑や住宅地がある。国分寺崖 (がいせん)線の一端にあり、こんもりとした林に囲まれている静嘉堂文庫の敷地内にあるのが、ジョサイア・コンドル設計の岩崎家玉川廟である。三菱財閥の2代目社長・岩崎弥之助の三周忌に合わせて、岩崎家の納骨堂として明治43年(1910)3月に建設された。ラテン十字形の平面をした煉瓦造石積みの外壁堂で、中央3.6m四方の主室には銅板葺きドーム屋根が架けられている。英国から24歳で来日したコンドルは、鹿鳴館などの作品を残し、多くの日本建築家を育てたが、こんな小さな優品も残したのである。

多摩川沿いの土木遺産に始まり、多摩川沿いのコンドル作品で4区一周の旅は、お終い。