第7支部のエリアは、東京23区の中で北西に位置する荒川、北、豊島、板橋、練馬の5区である。広域で歴史や風土が異なり、地域事情も 異なるが、駅周辺の再開発や建築物の不燃化など安全で安心なまちづくりへの取り組みが急務であることは共通している。5つの区を東から西へ駆け足で廻り、各区を代表する東京遺産を紹介しよう。

今月は、まず荒川区から訪ねてみた。目指すは、都電荒川線の荒川二丁目駅。同線は、早稲田−三ノ輪間12.2km を30の駅でつなぎ、路面軌道を約53分で走る。 日中のせいか高齢の乗客が多いが、各駅で乗り降り客が多く、距離に関係なく一律大人160円という運賃の安さも人気で、今なお都民の貴重な足となっている。 荒川二丁目駅近くには、わが国初の下水処理場、旧三河島汚水処分場喞(ポ ンプ)筒場がある。

赤レンガをくぐって隅田川へ

東京都下水道局の三河島水再生センター内の、赤レンガ造りの重厚な建物がそれだ。訪れた時は、旧施設を保存するための整備工事が着工されていた。同セン ター内では、ほかにも送水管および耐震補強工事、第2浅草系ポンプ室工事などが進められ、場内は各工区のタワークレーンや重機が所せましと稼働していた。

旧三河島汚水処分場喞筒場施設は、大正3年(1914)に着工、大正11年(1922)3月に完成して運転開始し、平成11年(1999)3月まで稼働していた歴史的建造 物。当時最先端であった建築様式・ゼツェッション(植物・幾何形態モチーフの装飾が特徴)を採用しているが、この様式の現存建造物は少なく貴重だ。平成19年(2007)に国の重要文化財に指定された。場内を巡ると、当時のパドル(回転して空気中の酸素を水に溶かしこむ機械)、レンガ積みの下水管、馬蹄形レンガ敷き下水管などが屋外に展示されている。馬蹄形の下水管は77年間も使用されていたもので、幅288p、高さ183p。三河島処理場に流入する浅草幹線の一部で、主ポンプ室流入渠改造工事に伴って掘り出された遺跡である。

三河島水再生センターは、荒川・台東区の全部、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部の下水処理をして隅田川に放流しており、1日70万m3の処理能力を持つ。赤レンガと桜との景観が美しく、毎年春には場内を開放し、見学会を行っている。

荒川区では、今年3月に起工した三河島駅前南地区再開発事業が話題のプロジェクト。超高層の再開発ビルや広場を整備し、平成26年(2014)9月末に完成 する。また荒川区では三河島水再生センターの近くである町屋駅・区役所周辺地区約122haを対象とするバリアフリー構想を展開しており、駅・道路・公園など のバリアフリー化を推進中である。

命と暮らしを守る荒川放水路工事

さて、荒川区から北区に移動し、訪れたのがJR 赤羽駅、東京メトロ南北線赤羽岩淵駅から徒歩約20分の、岩淵水門である。ここは荒川と隅田川を仕切る、 分岐点に建つ水門であり、隅田川の源流。管理している国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所の敷地内にあり、旧水門が「赤門」、昭和57年(1982)に竣工して運用中の新水門が「青門」と呼ばれている。

荒川の河口から上流22kmまでに造られた人口河川の荒川放水路は、明治43年(1910)8月に発生した隅田川の大洪水を契機に建設された。浅草や深川など 東京・下町を水害から守るプロジェクトで、翌年から昭和5年(1930)までかけた大工事となった。その一環として岩淵水門は、大正5年(1916)に着工し、大正13年に完成した。

この工事を率いたのが、パナマ運河の工事に従事して帰国したばかりの内務省技師、青山士ちから であった。日本土木史に燦然たる足跡を残すことになる青山は、底なしの軟弱地盤に水門を築くため、鉄筋コンクリート造の基礎にする決断をする。当時は、鉄筋コンクリ ートの技術経験が少なく、多くの反対論を押し返しての決断であった。川床からさらに20mの深さに鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて、水門の基礎を固めたという。その技術は、工事中に発生した関東大震災にも、戦後の地盤沈下にも耐えた。

赤門は経済産業省の近代化産業遺産、東京都選定歴史構造物、北区景観100選に選ばれた。水門上の通路は人や自転車に開放され、川に囲まれた中之島に渡 り、荒川と隅田川を望むことができる。

第7支部は「つながりを大事に」

赤羽駅に戻り、埼京線で池袋に出て、東京メトロ新大塚駅へと移る。第7支部長を務めている小松原和夫(株)小松原工務店社長に会い、支部活動の状況を伺う。「5つの区にまたがり広域だが、親睦を大事にし、懇親を深めるようにしている。支部会員はそれぞれ横のつながりを大事にし、切磋琢磨している」と語る。「板橋区の丹勢建設鰍フ外ほ かせ勢 ( 久夫) さんが第7支部長であったが、急逝し、遺言で私がその後を継いだ。もう30年くらい前のことになる」と、就任時を振り返る。とても82歳と思えない元気な話しぶりで「叩き合いをしないこと、赤字受注は自分の首を絞める。それに会社数が多いことが問題で、きちんとした仕事をする会社が生き残れるような業界環境にしていかなければならない」と指摘する。長い業界活動で鍛えられた眼力が、そう言わせる。

その小松原支部長は、大塚生まれの大塚育ち。小松原家の長男で、ご兄弟3人がそれぞれ異なる分野で叙勲を受けたことでも地元では有名だ。その地元っ子の 支部長が挙げた「東京遺産」は、とげ抜き地蔵尊。とげ抜き地蔵尊は曹洞宗萬頂山高岩寺が正式名称。江戸湯島で開かれ、下谷屏風坂を経て明治24年(1891)に巣鴨に移ってきた。地蔵菩薩は秘仏で、拝見できるのは御影のみ。毛利家の女中が針を飲み込んだが、御影を飲むと針を吐き出すことができたというのが由来だという。その御利益もそうだが、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨駅〜高岩寺〜都電荒川線庚申塚駅の商店街が、おじいちゃん、おばあちゃんで賑わっていて楽しい。

使ってこそ、の建築美

さて、豊島区では、もう一つ池袋駅西口から歩いて10分足らずの自由学園「明日館」を訪ねた。『婦人之友』を興した羽仁もと子が夫の吉一の協力を得て、自分の 教育理想を追求した自由学園。その旧校舎である明日館は、建築家・遠藤新を介したフランク・ロイド・ライトの作品である。繁華街の裏路地、不思議に閑静な 住宅街に建つ、その建物は芝生に囲まれ、プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれる建築美を醸し出している。大正10年(1921)に中央棟、西教室が竣工し開校、その後も東校舎、講堂を完成させた。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定され、平成11年から国・都の補助事業による保存・修理工事に着手、平成13年に完成する。

ライトの思想を再現し、構造を強化しリニューアルされた明日館は、平成15年(2003)にBCS 賞を受賞する。建物は使ってこそ維持保存ができるという考え から「動態保存」の理念で運営している。「動態保存を実現した建築文化に対する見識、および改修工事に当たってオーセンティシティを守った関係者の努力と 熱意」がBCS 賞の選定評となっている。

さて豊島区での話題のプロジェクトは、平成26年完成予定の区役所新庁舎建設を核にした「池袋副都心エリア地区計画」であろう。老朽化が目立つ建物の建 て替えを新たな地区計画で誘導していくまちづくりで、区は平成25年度中の都市計画決定を目指している。

銅製の 洋式砲と、大仏と

銅製で奈良、鎌倉に次ぐ大きさ、東京大仏

豊島区から板橋区へ。東武東上線で成増駅まで出かけ、そこからバスに乗り換え赤塚8丁目で降りる。バス停すぐ近くにある萬吉山宝持寺松月院は、板橋10 景に選ばれる地元でも由緒のある寺院だが、その境内にある高島秋帆顕彰碑が見ものである。高島は長崎・出島でオランダ人から西洋砲術を学び、アヘン戦争で の清国大敗が日本にも及ぶ危惧になるとして幕府に西洋式軍事技術の導入を説いた。天保12年5月、松月院に本陣を置き、徳丸ケ原(現在の高島平付近)で洋式砲術調練を公開し、世間をあっと言わせたという。その高島の名前が、今日の高島平の由来だと言われている。

大正11年(1922)12月に建設された碑は、安政4年に鋳造された銅製24斤加カ ノン農 砲を碑心に火焔砲弾4発を配置し、大理石の台座に乗せた高さ6m のものだ った。

松月院のすぐ近くにあるのが東京大仏。乗蓮寺の風格のある山門を潜ると右手に、青銅製では奈良、鎌倉に続く3番目に大きいと言われる大仏が鎮座してい る。重さ32t、総高13m。完成は昭和52年(1977)と新しいが、東京大仏というネーミングも受けて、新たな名所になりつつあるとか。

外環道から広がるまちづくり

牧野植物学は、この住居から生まれた

さて最後の練馬区は、昭和22年(1947)に板橋区から分かれて発足し、23区中最も新しい区。長年の課題であった東京外かく環状道路練馬−世田谷間(約 16km)の事業凍結が解除されたことから、新たなまちづくりの機運が盛り上がっている。区では、今年度、外環道の大泉ジャンクションから青梅街道インター周 辺を対象に検討調査費を計上し、沿道のまちづくりのあり方を検討する。昨年8月に設立した「大泉・石神井・三原台周辺まちづくり協議会」だけでなく、青梅 街道インター付近などでも協議会を作り、外環道整備に合わせた沿道の新たなまちづくりの機運を盛り上げようとしている。

 西武池袋線で大泉学園駅南口まで行き、そこから5分程度で、国の登録文化財、牧野記念庭園に着く。牧野植物学を確立した世界的権威である牧野富太郎が大 正15年(1926)から昭和32年に死去するまで住んでいた住居と庭が保存され、区立庭園になっている。奥様の名前から命名したスエコザサなど340以上の植物 が植栽されていた。博士の書斎も公開されている。

 以上、今月は下水に始まり植物で終わる散歩でした。大正時代の遺産が多かったのは偶然でしょうか。