第6支部のエリアは、墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区の5区となっている。各区に共通するのは、防災や減災への強い思いである。 かつての関東大震災、東京大空襲において、これらの下町は多くの家屋倒壊、焼失、死傷者を出し、壊滅的な被害を受けた。その歴史のつめ跡が街のあちこちに残されている。震災、水害、火災とその都度、復旧・復興を遂げてきた各区の、東京遺産と現在のまちづくりを紹介しよう。
7月下旬、まず墨田区を訪れた。JR両国駅から徒歩5分の、横網町公園内の東京都慰霊堂では毎年、関東大震災に襲われた9月1日に、遭難者慰霊大法要が 行われる。伊東忠太設計の雄大な寺院風建築物は、炎天下の園内にひっそりと佇んでいた。200坪の講堂を持ち、奥には三重の塔(高さ約41m)が配置されている。昭和5年(1930)に、関東大震災での身元不明の遺骨を納めるため、震災記念堂として創建された。この地一帯だけで3万8000人以上が死亡したと言われる。その後、東京大空襲による殉難者遺骨も納められ、戦災者整葬事業が完了した昭和26年(1951)に東京都慰霊堂と改称された。今では16万以上の遺骨が安置されているという。
公園内のもう一つの建築、復興記念館は昭和6年(1931)に竣工し、今は館内には遭難者の遺品、被害品、絵画、写真などが陳列されている。関東大震災だけでなく、戦災関連、阪神・淡路大震災の資料も開示されている。展示されている火災熱で歪んだ自転車や生活用品が痛々しい。それらを見て回るだけで、大災害被害者への鎮魂の思いが湧いてくる。
横網町公園のすぐ向かいが、旧安田庭園である。江戸時代に造られ、隅田川の水を引き入れた汐入回遊式庭園として名高い。園内には汐入の水門も遺構として 残されている。安田財閥の寄付金をもとに東京市政調査会が大正15年(1926)に建設したのが、両国公会堂。ドーム型屋根の円形ホールを備えた建物は、震災から 立ち直る復興のシンボルとなった。戦時には食料配給所、戦後には進駐軍のクラブとして接収され、その後老朽化して閉鎖されていたこの両国公会堂だが、いま墨田区が民間事業者を公募し、新たな結婚式場施設として蘇ろうとしている。区では、旧安田庭園も含め、両国地区のグランドデザインを策定し、来年3月にはまちづくり協議会を立ち上げる予定である。
墨田区から江東区に回り、東京メトロ東西線木場駅に行き、駅に隣接している東起業鰍フ本社を訪れた。今年5月、第6支部長に就任した布戸哲太取締役会長 から、支部活動についての考えを聞く。
「私たちの仕事は、地域に還元すべきものだから、支部の活動も防災活動が中心になる。区とは防災協定を結んでいるが、大事なのは、会員以外の建設業も巻 き込み、業界だけでなく商工会議所のメンバーとも連携し、さらには東建の他支部とも協力していくことだと思う」と、先を見据えた取り組みをしようとしている。「災害復旧というと、自衛隊が脚光を浴びるが、発災から1,2時間の初動で、どれだけ命を救えるかが最も大事だと思う。その初動で、いち早く活動できるのは地域に根付いている私たちであり、町内会と協 力して取り組んでいく」とも。
支部の現状については「非常に苦しい。業者数が多く、過当競争になってしまうことが課題」と指摘する。その布戸支部長が日頃、親しんで、よく訪れる場所は 「富岡八幡宮か清澄庭園」と言う。
八幡橋の下は堀が埋められ、通り抜けのできる小さな通路になっている |
そこで、東西線木場駅から西へ一駅戻って、門前仲町駅で降り、都内最大の八幡神社の富岡八幡宮を訪ねる。創建が寛永4年(1627)で、勇壮な「水かけ祭り」が有名。江戸勧進相撲発祥の地としても知られ、新横綱が奉納土俵入りする場所でもあり、境内には相撲に関連した石碑が目立つ。下町風情あふれる境内の奥には、ひっそりと「復興記念碑」が立っており、ここでも災害や空襲から立ち上がった歴史の名残を偲ばせている。
富岡八幡宮近くの八幡堀遊歩道には貴重な土木遺産もあった。その名も「八はちまんばし幡橋」といい、日本最古の鉄橋のひとつとして国の重要文化財に指定されている。延長15.76m、幅員2mの小さな橋だが、明治11年(1878)、京橋区楓川に弾だんじょうばし正橋として架設され、その後現在地に移設されたもの。米国製鋼鉄部材を輸入し採用した歴史から、平成元年(1989)には、米国土木学会から栄誉賞が贈られている。
江東区の橋で欠かせないのが、流麗なデザインの清洲橋であろう。関東大震災で、隅田川に架かる橋はゼロとなったが、永代橋に次ぎ二番目に建設されたの が、鋼鉄アーチの清洲橋。大正13年(1924)に着工し、昭和3年(1928)に完成した。土木学会の第1回選奨土木遺産に選ばれている。
現在の江東区のプロジェクトで関心を集めているのは、東京都中央卸売市場の豊洲新市場である。青果棟、水産仲卸売場棟、水産卸売場棟、管理棟などで構成し、 平成26年(2014)度末に完成する。今は、土木(土壌汚染処理)工事が最盛期。豊洲一帯は、大型再開発、超高層マンションなどの建設ラッシュにある。
さて足立区では、JRや私鉄が集結する北千住駅から歩くこと約15分、国道4号線の中居交差点近くにあるNTT東日本千住ビルを訪れた。このビルは、建 築家・山田守の初期の設計作品で、直線と曲線のバランスを持つファサードが目を惹きつける。昭和4年(1929)5月に竣工した。RC造2階建て、戦前の逓信建築として現存する希有な例で、保存か再生かで話題となった東京中央郵便局(1933年、現JPタワー)よりも古い。1階は空室になっているが、2階は資料室などに使われている。レトロな通用門から中庭に入 ると、芝に埋め込まれた古い碑があり、「安全をおしのけてやるような重要な仕事はない、安全をおしのけてやるような緊急な仕事はない、安全なくしてINSの達成なし」とある。でんでん東京安全推進本部の碑であった。「でんでん」は旧電信電話公社、INSは戦前逓信建築のNTT東日本千住ビル大規模な土壌汚染対策工事が進む豊洲新市場には処理が終わった土が積まれている6 東建月報 2012.9当時のISDN通信サービスである。安全は、どの業種でも最優先であり、それは昔から変わらない。
足立区から葛飾区へ。葛飾と来れば、ここしかないであろう。フーテンの寅さんの故郷、葛飾柴又である。京成金町線は、柴又駅のためにあるような路線であ る。京成金町駅と京成高砂駅を往復しているが、途中停車は、その中間の柴又駅だけである。明治32年(1899)に開業した同駅(当時は帝釈人車鉄道)は、映画『男はつらいよ』のほぼ全作品に登場し、関東の駅百選にも選ばれている。駅前から映画でおなじみの「とらや」など店舗が並ぶ参道を通り抜けると、突き当たりが「柴又帝釈天」。寅さんが産湯を使った寺と いうイメージがあるが、江戸初期の寛永6年(1629)に開創された日蓮宗寺院であり、重厚な風格を持つ帝釈堂、二天門、本堂、釈迦堂、大客殿、さらに池泉式庭園もある。
葛飾区では、2013年度から2022年度までの区基本計画案を策定中である。新総合庁舎の整備、400を超える公共施設の更新・統廃合、耐震化・不燃化などの 防災対策など10項目が盛り込まれている。
葛飾区から南に下り、江戸川区に入る。JR小岩駅からバスで江戸川土手方面に向かう。江戸川病院の停留場で降りてすぐが、善養寺であり、この境内に国の 天然記念物「影ようごう向の松」がある。推定樹齢600年以上、根元の樹周約4.5m、主幹8m高の黒松で、威容は地上2mから四方直径30m前後に伸びている枝である。鏑かぶらき 木清方は『新江東図説』の中で「巨大な傘をさしかけたような影向の松」と表現し、その珍しさを讃えている。昭和56年(1981)、日本名松番付で日本相撲協 会の春日野理事長(元横綱・栃錦)が「横綱に推挙する」とした碑もあった。この善養寺には、天明3年(1783)7月の浅間山大噴火の「横死者供養碑」もあ る。浅間山の噴火による多数の犠牲者は、遠く江戸川を流れ下り、下小岩村付近の中州まで流れ着き、村民が寺内の無縁墓地に埋葬したものだ。
地震、戦災、そして噴火。東京を見舞ったあまたの災害に思いをはせる第6支部エリアの小旅行でした。