第3支部のエリアは、昭和22 年(1947)3月、芝・麻布・赤坂の3区が合併して発足した港区。人口約23 万人(平成24 年推計)で、企 業の本社が多いビジネス街であり、赤坂・六本木・新橋の歓楽街、麻布・白金台の高級住宅街、汐留・台場の再開発など地域的変化に富み、日々賑わい、日々進化している区でもある。東京タワー、レインボーブリッジ、東宮御所と東京を象徴するランドマークにも恵まれている。秋の一日、そんな港区の東京遺産を探してみると――。

スタートは、都営地下鉄三田線の「三田駅」。そこから商店街の、狭い路地を抜けると慶應義塾大学三田キャンパス。桜田通り沿いの東館を潜り抜けて、すぐ そこが重要文化財の図書館旧館である。明治45年(1912)4月、塾創立50年事業として建てられた建物で、赤レンガのファサードとネオ・ゴシック様式が目 を惹きつける。設計は曾禰達蔵・中條精一郎(そねたつぞう・ちゅうじょうせいいちろう)で、外国人の手を借りないで造られた洋風レンガ館としても有名。入口横には、福澤諭吉の胸像があり、これは昭和29年(1954)に建立されたものだ。大学の各キャンパスには諭吉の胸像が一体ずつ設置されているという。

新旧建ち並ぶ三田キャンパス

図書館旧館で見事なのは、入館してすぐの階段室にはめ込まれたステンドグラス。暗い室内に浮かび上がる、色彩と絵柄が素晴らしい。三田キャンパスにはも う一棟、重要文化財があり、日本最初の演説会堂である三田演説館がそれだ。明治8年(1875)開館の、小規模の土蔵造り。ちなみに「スピーチ」を「演説」 と訳したのは、福澤諭吉先生とか。

三田キャンパスは、新旧の建物が競うように建ち並ぶ。ぐるりと塾内を散歩し、あちこちに配置されている彫刻を鑑賞しながら、最初に来た東館に戻り、アー ケードを見上げると「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とある。

慶應義塾大学三田キャンパスからJR田町駅を抜けて、芝浦3丁目のシステム機工(株)に向かう。第3支部長を務める南口均社長に支部活動について伺った。

ものづくり支える人手が足りない

「支部会員は大手から中小まで、様々な規模の企業で構成されている。親睦を兼ねた勉強会を中心に活動している。1〜3支部持ち回りで、年1回、合同講演 会を開いている。今年は第3支部が幹事となり、社会問題となっているエネルギーに焦点を当て、LPガス備蓄の現状と今後について講演会(東建月報11月号 「東建短信」掲載)を開いた」という。業界の現状については「震災以降、職人不足が深刻になっている。特に土木関連の人手不足が顕著で、労務費も上がって いるし、何よりも確保が困難だ」と厳しい表情を見せる。

というのも、「建設業は人と資機材があってこその仕事。このような人手不足では建設業として成り立たない」からだ。また利益率の低下も指摘しながら、「こ の業界は構造的・体質的に夢を持ちにくいが、それでもモノが出来上がった時の達成感が好きで仕事をしている。他産業から見れば、よくそんな薄利で仕事をし ているな、と言われるが、ものづくりの楽しみが支えになっている」と語る。その、ものづくりを支える人手が不足していることが「一番しんどい」と。

南口支部長が好きな地元のスポットを聞いた。「港区は、坂の名前の地名が多い。聖坂、魚ぎょらん籃坂、桂坂、桑原坂、三光坂など数え切れない。三田4丁目には幽 霊坂もあるが、その一帯の寺町がいい。寺めぐりをしてボーッと散歩している時が至福」と語る。古い建築や寺院には「何とも言えぬ味わいがある」とも。

タワーの足下、前方後円墳

三田方面に戻り、慶應義塾大学三田キャンパス裏の4丁目界隈を訪れて、驚いた。その一帯には33カ所のお寺が建ち並び、静寂な佇まいを見せているではな いか。寛永11年(1634)に、参勤交代のための大名屋敷を整備する必要に迫られ、八丁堀や桜田の寺院がここに集められ、計画的な寺院街とされたという。約 380年後の今も、明福寺、明王院、常林寺など寺院が残っている。

芝公園には芝丸山古墳もある

静かな一帯を楽しみ、その後は桜田通りに戻り、そびえる東京タワーを見ながら、芝公園方面に歩く。実は南口支部長は「東京タワーもいい。奈良育ちで、中 学の時の修学旅行で東京タワーを観たのが鮮明な記憶として残っている」とも言っていた。「確かに三田からのタワーには味わいがある」と思いながら、やって 来た芝公園は明治6年(1873)に開園、都内でも上野恩賜公園と並ぶ古い公園である。その園内に、実は丸山古墳と貝塚がある。全長110m、後円部径64m、 前方部前端幅40m、くびれ部幅22m の前方後円墳で、都内最大級の規模だという。

こんな都心の、ど真ん中に、古い族長の墓が今なお現存しているのだ。とは言っても、林の中のこんもりした台地になっているだけで、古墳の形状はよく分か らない。その台地の奥には、伊能忠敬測地遺功表も建立されてある。伊能忠敬の測量起点が、芝公園近くの高輪の大木戸だったことから、東京地学学会が明治 22年(1889)に建てたが戦災で失われ、現在のものは昭和40年(1965)に再建された。伊能忠敬がこの付近から測量の旅に出たと思うと感慨深い。

殉職の霊悼む徳川の菩提寺

 古墳の高台を降りて、重要文化財の旧台たいとくいん徳院(徳川秀忠)霊れいびょうそうもん廟惣門を潜り、左右に屹立する木造仁王像を 見ながら、浄土宗大本山増上寺大殿に向かう。毎年9月20日は、1年間で亡くなった建設関係殉職者の追善供養が、全国建設業協会によってここ増上寺で行わ れている。今年も全建関係77人の霊を弔った。室町時代の開基(明徳4年)と言われるが、徳川家の菩提寺として有名になった。増上寺は東京大空襲で被災 し、歴史的建造物群の過半を焼失、大殿もその例にもれず、戦後再建されたものだが、仰ぎ見ると、大屋根に背景の東京タワーが重なり、江戸と東京のシンボル が交錯する貴重な景観になっている。

増上寺から日比谷通りを北上して左に折れ、昭和5年(1930)に建設された東京慈恵会医科大学本館を過ぎると、すぐ愛あ たごずいどう 宕隧道が見える。愛宕隧道は、横浜の山手隧道と並んで「復興道路隧道の名作」(伊東孝『東京再発見』岩波新書)と呼ばれている。昭和4年2月から翌年8月までの工期で完成した、幅員9m、延長73.45mのコンクリート造トンネルだ。洞門意匠も「白御影で組んだアーチリングと洞門壁面の黒っぽい真四角の壁面が完成当時の優雅さを偲ばせる」(前同)と評価されている。愛宕神社やNHK放送局(現在は放送博物館)を山頂に戴く愛宕山の下を東西に貫通する隧道は、芝・新橋と虎ノ門・神谷町を結び、人も往来できる。その側には、出世の石段と呼ばれる急な男坂。曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬で駆け上がり、徳川家光に桜を献上した逸話が有名だ。今は、階段を登らずエレベーターが使える。

愛宕隧道の近くでは、環状2号線のマッカーサー道路が高さ247mの超高層ビルを貫通する、東京都施行の「新橋・虎ノ門地区再開発V街区」が工事の最盛期を迎えている。平成26年(2014)度に完成すれば、都内では東京ミッドタウンに次ぐ高さのビルになる。このプロジェクトを中心に一帯は、再開発事業のラッシュとなっており、災害に強く、新しいビル街が整備されつつある。

方向転換して、東京臨海新交通ゆりかもめ「新橋駅」からレインボーブリッジを渡り、広大な東京湾とウォ ーターフロントの建築群を一望しながら、「お台場海浜公園駅」まで。お台場海浜公園に隣接する「台場公園」には、国の史跡である第3台場が公開されている。 ペリー来航(嘉永6年(1853)6月)に対処して江戸幕府が嘉永6年8月から翌年の安政元年(1854)5月の間に第1〜3、5、6の砲台を造り、4と7の 台場は途中中止となったという。現存しているのは第3と6で、第6はレインボーブリッジから見下ろせるが立ち入り禁止。第3台場は石垣に囲まれた正方形の 公園で、内側が窪地。周囲の土手には弾薬庫の跡地があった。浅瀬に丸太を打ち込み、伊豆や房総から切り出した石を組み、品川から運んだ土砂で埋め立てたも のだという。国を守る一心で、昼夜なく造営した維新前夜の当時がしのばれる。

華やかな厩舎は乃木イズムか

六本木方面に向かう。地下鉄東京メトロ千代田線の「乃木坂駅」で降り、乃木神社内にある港区指定文化財の乃木邸を見る。明治34年(1901)に建てられた 邸宅は、日露戦争を闘い抜いた乃木希典の人柄か、渋く質素このうえない。厩舎のほうが華やかなのも乃木イズムなのかも知れない。この家の2階で夫妻が殉死したという。

六本木では、黒川紀章設計の国立新美術館の敷地内に旧陸軍歩兵第三連隊兵舎がある。昭和3年(1928)竣工の、陸軍初のRC造建築物であり、隣接の政策研 究大学院大学に向けて建てられている。ここが2・26事件において、反乱軍の本拠であった。今は背面が国立新美術館と同じデザインに改築され、美術館別 館になっている。

今月号は、江戸から明治、昭和の事件探訪になったが、港区はそれだけ東京の歴史の中核にあった土地だということだろう。

新しいまちづくり急ピッチ

最後に港区内の注目のプロジェクトを紹介しよう。世界貿易センタービルの建て替えを核とした5棟、総延べ39万2の「浜松町駅西口周辺再開発計画」が来 年度着工、2024年度の完成を目指す。今回、散策した三田3・4丁目の約39haでもデベロッパーを含めた地元地権者の組織が発足し、新たなまちづくりの検 討が始まっている。ほかにも今年8月に東京都から再開発組合が認可された赤坂一丁目地区市街地再開発、実施設計が進み来年度着工が期待される港区庁舎大規 模改修工事も注目される。