第2支部のエリアの千代田区は、皇居を中心とした都内の中心地域で、官庁、国会、最高裁判所、警視庁など立法、行政 、司法が集約され た地区である。都庁も旧庁舎は同区内にあった。江戸時代前期には、江戸とは千代田区内のエリアを指し、江戸城も千代田城と呼ばれていた。千代田区は、夜間人口が約4万人なのに、昼間人口が約20 倍となり、昼夜の格差が著しいが、これもオフィスが集中している地域特性のため。戦後、麹町区と神田区が合併して千代田区が発 足した。区名の由来は、江戸城の別名(千代田城)にちなんだものと言われる。

江戸の土木技術生きる外堀石垣

さて、今回最初に訪れたのは、東京メトロ銀座線の虎ノ門駅。駅から降りて日本初の超高層建築・霞が関ビルに向かうエスカレーターの途中に、江戸城外堀跡 の石垣が公開されていることはあまり知られていない。乗り継ぎのエスカレーターの中間に、外堀の深さを示しながら展示されている。

江戸時代には貴重な水源であった外堀には石塁として高さ9mほどの石垣が築かれ、それに沿って江戸城下町を延長14kmにわたって流れていたという。この 石垣が築かれたのは寛永13年(1636)で、その普請には当時の最先端の土木技術が駆使されていた。表示板を見ると、材料の製作、製作された石の運搬、現場 での施工が分業化されていたことが分かる。つまり伊豆の石切場で規格に沿って石が加工され、それを船や轆ろくろ轤(ウィンチ)で運搬、現場では石の断面形状の配置を配慮し、上になるにつれて急勾配になるような「反り」を設計図に取り込んでいたのだ。

この現存する設計図は、現在の構造計算の安定曲線と近似しているというから、400年前当時の、日本の土木技術がいかに高い水準だったことか。慶長9年 (1604)から寛永13年(1636)の長い歳月をかけて建造された江戸城だが、外堀はその最終段階の大工事であり、その水はまちを潤し、貴重な生活水となってい た。展示室にはお堀の断面も示されていて、自分の身長と比較できる。比べてみると、底から水面までは約170〜180cmというところか。浅い流れが緩やかに環 流していたことが想像できる。

表示板の説明を読むと、外堀工事が御手伝普請という請負で進められていたことも分かる。100を超す諸藩の大名が材料から労務までの持ち込みで動員され、 石高に応じて工事区域を分担していたというから、国挙げてのJV工事であったのだ。この付近は、東京大学工学部の前身である工部大学校の発祥の地でもある が、明治10年(1877)の建学当時は、まだ外堀が存在し、水が流れていた。

昭和の瞬間をとどめ再生されたDNタワー

さて、霞が関ビルから官庁街を抜けて、新旧の建物が一体となった法務省旧館を見ながら、皇居方面に向かう。有楽町1丁目に建っているのが、今はDNタワ ー21と呼ばれている再開発ビル(表紙)。昭和8年(1933)竣工の農林中央金庫有楽町ビル、昭和13年竣工の第一生命館をそれぞれ部分保存し、解体・再構築 したもので、東京都選定歴史的建造物にもなっている。端正なファサードがお堀の水面に映えて美しいシルエットを見せる。

歴史的建造物の多い千代田区において、歴史を残しながら新しい時代にマッチした建物へ再生させるプロジェクトの走りでもあり、昨年オープンして話題とな った東京駅再生プロジェクトの先輩格と言える。

このビルの歴史的価値は、昭和初年鉄筋コンクリート造の代表的ビルというだけでなく、終戦直後、日本の占領政策を実施したGHQ(連合軍総司令部)に接 収され総司令本部となったことだ。正確には地上7階地下4階建てだった第一生命ビルの6階にGHQ司令官マッカーサーの部屋があり、昭和天皇とマッカーサ ーが並んで写った歴史的写真は、この第一生命ビルで撮られたものだ。

再開発は、特定街区制度に基づく歴史的建造物保存による割り増しを受け、容積率1230%で超高層ビルを建設した。平成元年12月に解体工事に着手、翌年8月に超高層部に着工、高層棟や第一生命館西寄り部建て替えなど全工事が完成したのは平成7年9月であった。じっくり時間をかけた再開発プロジェクトだったのだ。

東京メトロ千代田線の二重橋前駅から都営地下鉄新宿線岩本町駅まで行き、同駅近くの協和営造鰍訪ねる。同社社長の白井純一氏は、平成22年5月から第2支部長を務め、現在2期目となる。白井支部長は千代田区の中で「皇居・千鳥ヶ淵、再生して話題の東京駅、そして東京国際フォーラム地下1階にある相田みつを美術館」が好きな場所だという。

千鳥ヶ淵の桜は、自身が()まちみらい千代田の桜サポーター会員となり、3000本の桜木の維持管理に協力しているので、なおさら親近感がわく、と。東京駅 には、技術者(1級建築士)としての興味が尽きない。「鉄骨とレンガの構造的な組み合わせが絶妙であるし、駅舎内の東京ステーションギャラリーでは壁面に木 もくレンガを見ることができる。木レンガとは、漆喰が塗られたレンガ壁に、腰壁などを固定するため、そのネジやクギを受ける素材として木製のレンガが組み込まれ たもの。ギャラリーの展示物より壁ばっかり観ている」と笑う。

相田みつを美術館は「気分が落ち込んだ時によく行き、その言葉や書に触れると、また元気になれる場所」と語る。

職人不足、労賃高騰が課題

支部長としては、千代田区が環境モデル都市に取り組んで省エネセミナーなどを実施していることからこれに協力したり、また自社では太陽光発電分野に挑戦 しているが「事業としてはなかなか難しい」と。建設業界の課題としては「職人や労働者が不足し、労務費が高騰しているのが一番。工事中に高騰しても、それ を簡単に転嫁できない。根本問題として若い人が入ってこないことがある。そのためにも業界のイメージや地位を向上させること、ドイツのマイスター制度のよ うに職人に誇りの持てるシステムを導入すること、社会保険加入など待遇を良くすることが必要であり、そのためにももっと利益の上がる経営環境にしなければ ならない」と指摘し、ひとづくりに意欲を見せる。

協和営造鰍フ近くを流れる神田川から一望できるのが万世橋高架橋。JR山手線・中央線のレンガアーチ橋は約5.3kmもあって、「万里の長城にたとえる人も いる」(伊東孝著『東京再発見』)という明治から大正のインフラ・プロジェクト。伊東氏は万世橋高架橋を、「残された煉瓦アーチ橋の中では、一番のロケーショ ン」(同)とたたえる。

万世橋、新たなランドマークに

この万世橋高架橋は、もとは万世橋停車場であった。中央線の始発駅として明治44年(1911)4月竣工したものだ。そして今、東日本旅客鉄道鰍ヘ、JR 神田万世橋ビルの建設と同時に万世橋高架下再開発工事を進め、今年6月末に完成させる。旧万世橋駅のホームと階段の遺構を整備公開し、長さ約200mの高架下のアーチ内部に遺構と一体となった商業施設としてリニューアルするプロジェクトである。地上20階地下2階建ての神田万世橋ビルとともに、新しい神田須田町のランドマークとなるだろう。

神田の象徴のひとつ、ニコライ堂

千代田区の橋で忘れられないのが、造形美の極致と言われる聖橋であろう。御茶ノ水駅の東端、神田川を跨ぐ橋は、きれいな放物線を描く鉄筋コンクリートア ーチ橋で、用・強・美を兼ね備えている。関東大震災後の震災復興橋梁として昭和2年(1927)7月に竣工した。橋長92.3m、幅員22mで設計は建築家山田守 と橋梁工学の成瀬勝武による合作。当時の東京府東京市が公募し、江戸幕府の官学所であった湯島聖堂とビザンチン風建築のニコライ堂(東京復活大聖堂)の両 聖堂にちなんで命名された。

というわけで聖橋を渡って、命名の由来であるニコライ堂へ。再開発が進み、高層ビルの建築が目立つ御茶ノ水駅周辺にあっても、緑青の高さ35m のドーム屋根は、古き良き時代の象徴として際立っている。日本初の、最大級のビザンチン様式の教会建築であり、明治24年(1891)に竣工した。その通称は、日本に 正教をもたらしたロシア人修道士ニコライから呼ばれるようになった。関東大震災で被害を受け、その後、何度かの修復を経て、現在の姿になったのは昭和4年 (1929)からだ。昭和37年6月、国の重要文化財に指定された。

「グランドデザイン」で9エリアの街づくり

さて駆け足で、数多い千代田区の東京遺産を廻ってみたが、その中にもあるように、区内では再開発プロジェクトが目白押しである。歴史のある地域なので、 その歴史性を生かし、新しいプロジェクトとして再生する技術と知恵が駆使されてきた。東京駅、丸の内・大手町、神田、小川町、飯田橋・富士見など大規模な 再開発プロジェクトが動き、それに伴い周辺のビル建て替えも活況を帯びている。

千代田区では平成15年(2003)5月に「まちづくりグランドデザイン」を策定し、区内のプロジェクトを具体的な全体像として明示した。その中では、今後 10年間で区内に投入される再開発事業費は約2兆円規模と試算し、九段周辺、大手町、紀尾井町、神田警察通り・神田金物通り、番町中央通り・早稲田通り、 東京駅ゲート、有楽町駅周辺、秋葉原、飯田橋駅周辺と9つのエリアで青写真が描かれている。

今年は「グランドデザイン」の10年間最後の年に当たるが、計画は途上にある。千代田区のまちづくりは、まだまだ広域的に大きなスケールで続くであろう。