1年間続けてきた「東京遺産」シリーズも今回が最終回である。訪ねるのは東京のど真ん中、名称どおりの中央区である。同区は日本橋、銀座、 八重洲という繁華街、月島、佃など下町風情を残す街並みと変化に富み、土地の価値を生かすため再開発事業も活発で、日々進化している地域と言える。歴史的にも日本の中心として栄えてきており、史跡に恵まれている。江戸時代は城下の町として賑わい、江戸町と呼ばれていた。太平洋戦争が終わるまでは、運河と水運に恵ま れたウォーターフロントの町でもあった。その面影は月島など隅田川沿いの超高層マンションが立ち並ぶ地域に、今も生きている。

すべての道は日本橋から

起点はやはり日本橋。ここは、東海道五十三次の起点であるばかりでなく、日本の道路網の始点でもある。日本橋の中央には「日本国道路元標」の文字盤が 埋め込まれており、戦前・東京市の道路始点であったことを示している。1,4,6,14,15,17,20号の7本の国道の始点となっている。日本ではすべての道は、「ローマ」ではなく、「日本橋」に通じると言っても過言ではない。

日本橋は慶長8年(1603)、初代の木橋が架けられた。復元したものを江戸東京博物館で観ることができる。その後、火事で焼け落ちたり、建て替えられたり した。現在の橋が造られたのは明治44年(1911)4月。御みかげ影石いしの石造二連アーチ橋で19代目だというから、江戸・東京の要所として長い歴史を刻んできたのである。

橋体のデザイン、橋柱の麒き りん麟や獅子の彫刻など観るほどに風格のある橋だが、それもそのはず、辰野金吾のライバルであった建築家・妻つ まき木頼よりなか 黄の設計である。妻木は東京府庁、東京商業会議所などを設計した大家だが、明治・大正の橋のデザインには建築家が深く関わり、それだけに欄干などに芸術的な装飾が施され、風格のあるシビックデザインになっている。大きな二つのアーチで両岸を力強く結んでいる。

その日本橋が高速道路下に置かれ、景観上問題になり、高速道路の地下化や橋の移転が議論を呼んでいる。中央区がこの2月に取りまとめた「中央区基本計画2013」でも、「名橋日本橋上空の首都高速道路撤去および日本橋再生に向けたまちづくり」として、平成25〜29年度は仕組みの検討・国への要請、モデル地区のまちづくり検討、日本橋再生推進協議会の運営――に取り組むことにしている。京橋から日本橋にかけては、鉄鋼ビルディング建て替え、京橋3-1プロジェクト、日本橋二丁目地区再開発、日本橋再生計画など大プロジェクトが次から次へと着工され、街は新しい時代の賑わいを呼び込みつつある。日本橋は、歴史と未来とを架ける拠点でもあるのだ。

金融緩和の牙城・日銀本店本館は辰野金吾設計のネオバロック

石垣を使った石造アーチ橋「常磐橋」

日本橋川沿いに神田方面に向かうと、常盤橋と常磐橋が並んでいる。呼び名は同じ「ときわばし」。前者が震災復興橋梁で後者は、文明開化時に肥後の石工が 常盤橋御門の石積みを利用して造ったものだ。陣内秀信法政大学教授によると「明治6年(1873)の万世橋を筆頭に、明治10年頃までに10の石造アーチ橋が つくられた。そのうち、唯一現在まで残るのがこの常磐橋」(陣内秀信『東京 世界の都市の物語』文藝春秋)だという。その常磐橋は、平成23年の東日本大震災 により壁石や石材が破損して、今年3月末までの工期で修復工事中である。それを担っているのは、当協会会員の技術力である。

当時の姿とどめる日銀地下金庫

さて震災復興橋梁のほうの常盤橋近くにそびえるのが、近代建築史に輝く日本銀行(以下「日銀」)本店である。建築家・辰野金吾の設計で明治29(1896) 年2月に竣工した。1階は石造り、2.3階は耐震のための軽量化を図るため石貼レンガ造りとした。屋根は高さ13mのドームとし、古典的でネオバロック様 式のファサードはベルギー中央銀行を模したという。この軽量化は、関東大震災でも本体構造がびくともせず効果があったが、地震後の火災のため内部焼失を余 儀なくされた、とか。

日銀では、国の重要文化財である本館を公開、予約制の見学案内を行っている。1時間で地下金庫、店舗内部、遺品、歴代総裁肖像画などが見学できる。地下 金庫はドーム屋根の真下にあり、竣工当時のままの壁・天井のレンガが残されている。流通しているお札を積み上げると富士山の377倍の高さになること▽車 寄せは馬車を想定していたので、馬用の水飲みポンプが現存し、その水はウマくないこと▽地下金庫が泥棒に襲われたことを想定し非常時には神田川の水を流し て紙幣を使用不可にするようにしていたこと▽ここの水洗トイレは日本初であること――などが見学会で再発見できた。

日銀の近くには、三井本館(昭和4年竣工)、日本橋三越本店(昭和2年)、野村證券本店(昭和5年)、高島屋日本橋店(昭和8年)など重要文化財や都選定 歴史的建造物の名建築が数多く立ち並んでいる。

続く悪循環に行政も対策を

さてここで、当協会・坪井晴雅第1支部長(坪井工業(株)社長)を本社屋のある銀座に訪ねて、中央区で好きな景観、見所を聞いてみた。

「やはり銀座通りだね。表通りは、ロンドンオリンピック・パラリンピック選手団のパレードの場所にもなったように格調があり、広い一直線の景観が素晴ら しい。それから泰明小学校。私は卒業生だから、愛着が持てる建築。昔の校門はバラの花が絡まり今よりはるかに風格があった」。坪井支部長は泰明小学校、一 橋中学校、日比谷高校、慶應義塾大学という名門校を歩み、日比谷時代の「ポン友」には日銀総裁候補になっている時の人、岩田一政日本金融センター理事長 (元日銀副総裁)がいるという。

 建設業界の課題については「やはりダンピングを誘発する入札契約制度。赤字工事を受注し、利益をあげられない悪循環に陥り、職人や社員も入職しない業界 になる。ダンピング対策、実勢単価、スライド条項など行政にも考えてもらいたい」と述べる。「第1支部は、大手、中小の会員が混合した組織であり、それを まとめていく難しさがある。中小会員は、中央区発注工事が他区のような地元優先を採用していないことを問題視している」とも。

坪井工業鰍ヘ創業81年の老舗。祖父の創業者・故坪井定氏は国鉄出身。軌道工事で不動の基盤を作り、大日本図書、日本鋼管、愛知製鋼など独自の顧客にも 恵まれて成長させてきた。坪井支部長ご自身は外交官希望だったが、祖父に口説かれ、家業を継いだという。

優雅な和光は銀座のランドマーク

 中央区というより、東京、日本を代表する繁華街と言えば、銀座であろう。ちなみに先に紹介した日銀の一帯は江戸時代に金座と呼ばれ金貨鋳造の地であった わけで、銀座は銀貨の鋳造をしていた地ということになる。ゆったりとした道路と一律の建築物スカイライン、ブランド店舗が立ち並ぶ表通り。裏に廻れば風情 のある酒場やレストラン、小路も入り組む。景観的にも優れている銀座の街並みの象徴が、ランドマークにもなっている時計塔の和光本館。建築家・渡辺仁がア メリカンルネッサンス様式で設計し、昭和7年(1932)に竣工した。交差点の対角上に立つ人の視線を考え、優雅に広角度に広がるファサードが象徴的である。

銀座でもう一つ忘れられない建築物は、坪井支部長も通った5丁目の中央区立泰明小学校。赤レンガ、その後に木造モルタル造に改築されていたが、関東大震 災で全焼、昭和4年(1929)に鉄筋コンクリートで造られたのが現在の校舎で、復興小学校とも呼ばれている。東京都選定歴史的建造物であり、ツタの絡まる 壁面、フランス様式の校門など良き時代の雰囲気を伝えている。

京橋から日本橋にかけての中央通りは再開発のメッカ 夜の隅田川に輝く重要文化財、水路の帝都門と呼ばれる永代橋

その銀座も、306室のホテル、銀座6丁目10地区再開発、銀座東芝ビル建て替えなど新たなプロジェクトが進む。東銀座では新歌舞伎座が開場を待ち、超高層 ビルと一つになり、近く[GINZA KABUKIZA]としてオープンする。

数多くの大プロジェクトが進行中の中央区だが、中でも注目されているのは、江東区豊洲へ移転する築地市場の跡地約23haを含めた築地地区のまちづくりであろう。昨年8月に東京都が委託した「平成24年度築地地区まちづくり調査・検討業務」が今年3月にはまとまる。周辺や民間の現況調査、商業や宿泊、医療などの機能導入の可能性、水辺を生かしたまちづくり、食文化と連携したまちづくりなどを検討し、同地区の将来像やコンセプトが提示される見込み。

日本橋から巡ってきた中央区の東京遺産探しは、やはり水辺と水運の都市に相応しく橋でもって終わろう。同区には、橋のつく地名も多いが、歴史を刻む名 橋も多い。平成19(2007)年6月、国の重要文化財に指定された、隅田川に架かる勝かちどきばし鬨橋と永えいたいばし代橋が代表である。永代橋は、関東大震災で焼け落ちた隅田川に架かる橋の中で、復興事業第1号として大正15年(1926)12月に竣工した。「水路の帝都門」と呼ばれ、鋼製アーチで結ぶ中央径間は、日本初の100m以上で、緩やかなシルエットを刻む。夕方から22時まではライトアップされ、水面にも曲線美が映える。清洲橋とともに平成12年(2000)、土木学会の第1回選奨土木遺産に指定された。橋の下の地下を東京メトロ東西線が通る。

勝鬨橋は、今は開かぬ帝都の門

昭和15(1940)年6月、永代橋の下流に完成したのが勝鬨橋。この年、月島で開催予定であった日本万国博覧会へのメインゲート、海路の歓迎門として、当時の技術の粋を集め、両端のアーチ橋を結ぶ中央部が開閉する構造となった。戦争が激しくなり万博は中止されたが、橋は「東洋一の可動橋」と呼ばれた。戦後は昭和43年(1968)まで都電が通り、中央部の跳ちょうかい開も同42年まで続けられたが、その後は試験跳開だけとなり、45年11月29日を最後に開閉停止となった。築地側の橋のたもとには、「かちどき 橋の資料館」があり、歴史や技術を知ることができる。

勝鬨橋のように、東京都内に残る遺産と地域のまちづくりを地域ごとに開閉してきた連載も、今回でおしまい。

6月号からは新たな特集シリーズを連載します。お楽しみに。