東京地下鉄霞ヶ関駅近くに「霞が関跡」の碑がある |
今年の2月、台東区浅草二丁目の建設工事現場の地中から煉瓦造の構造物が出てきた、と話題になったのは記憶に新しいところである。場所から推察して凌雲閣(浅草十二階)の地下遺構ではないかと報道された。凌雲閣は明治23(1890)年に竣工し、関東大震災(大正12年)で大破し取り壊された浅草の名所であった。このように東京都心の地盤面以下には明治の煉瓦がまだ潜んでいるのである。
銀座煉瓦街の煉瓦発見に興奮
やや古い話になるが、昭和60年(1985)4月に銀座七丁目のビル新築現場の根切りの最中、煉瓦造構造物が発見された、との情報が舞い込んだ。筆者は矢も楯もたまらず現場に直行した。煉瓦の積み方はフランス積みであった。これがあの有名な銀座煉瓦街の遺構か、と興奮した。何故ならそれまで、銀座煉瓦街の構造物はおろか、煉瓦一本も発見されていなかったからである。銀座煉瓦街なんて歴史上、本当に存在したのか、と怪しむ向きさえあった。
日本の煉瓦造建築物の嚆矢は、いまの長崎市飽の浦(あくのうら)の地に安政4年(1857)に着工した長崎鎔鉄所の工場建築であったとされている。これは現存しないが、長崎市内には現存最古の煉瓦造建築物が残されている。世界遺産に登録された小菅修船場ドック巻揚機小屋、これが明治元年(1868)竣工である。翻って東京では煉瓦造の建築は遅れた。大阪よりも横須賀よりも遅れて、明治4年(1871)が最初である。大蔵省金銀分析所と竹橋陣営という建物がそれである。しかしその直後、煉瓦を主体とした、都市計画レベルのビッグプロジェクトが、わき起こる。
「銀座煉瓦街計画」。その顛末は読者諸賢のよく知悉されているところであると思うが、少しおさらいをする。明治5年(1872)2月26日(旧暦)、和田倉門内付近から出た火は銀座地区を舐め尽くした。復興に当たり大蔵省は(特に大蔵大輔の井上馨らの発案とされているが)、銀座を煉瓦造建築物で埋め尽くす計画を思い立つ。耐火・防火のまちづくりを目指す対内的な施策である。一方でそれは、井上の後年の振る舞いにも現れる対外的な考えでもあっただろう。築地居留地や新設なった新橋駅に近く、外国人の目に触れる町並みを西洋化(煉瓦化)して、新生日本の面目を発揮したいと考えたのだろう。起用された建築技術者は、冒険技術者とも謎のお雇い外国人とも評されるウォートルス(Thomas James Waters)である。彼は長崎、鹿児島、大阪で活躍した後、大蔵省に雇用されて、先の金銀分析所や竹橋陣営を建設指導した人物である。銀座煉瓦街計画は井上らの発想としては可であったとしても、それを実行するにあたっては、いろいろな困難が生じて廻る。そもそも大量の煉瓦の生産はどうするのか。驚くべきことに、綿密に検討された形跡がない。ウォートルスは東京小菅の地(いまの東京拘置所の場所)に当時最新鋭の煉瓦焼成窯であるホフマン窯(輪窯)を2基導入して対応した。
明治10年(1877)にはほぼ竣工した銀座煉瓦街の後世の評価は得てしてネガティブである。当初の計画は暫時縮小の憂き目に遭い、やれ雨漏りがする、商品は湿ってカビる、人間はカッケになるなどの否定的な評価を受けた。決定的なのは、主に家賃高に起因する空き家の増大であった。しかし、明治20年代以降になると銀座の街は発展に転じる。近世には田舎びていた銀座が今日の大銀座への歩を進め、地方には憧れを持って◯◯銀座という呼称が出現する画期になったのである。藤森照信博士は「文明開化最大の作品は、銀座の煉瓦街といえよう。(『明治の東京計画』昭和57年)」と評した。
霞が関物 語
庁舎か公園か | |
霞が関には現在、白山祝田通りに面して法務省や検察庁などが入居する合同庁舎6号館、弁護士会館、厚生労働省や環境省が入る合同庁舎5号館などが並ぶ。明治政府が司法省を始めとする官庁を現在の霞が関に整備するに当たって焦点の一つとなったのが、白山祝田通りを挟んだ、日比谷公園のある敷地だった。当初は日比谷公園まで含めて官庁を整備する計画もあったが、軟弱地盤だったため建物の建設をあきらめ、公園にした。日比谷公園部分も含め日比谷練兵場跡だった一帯のうち、海側の半分が使えなくなったため、当初より窮屈な庁舎敷地となった。結果的にこの時の敷地計画が現在の霞が関官庁街の骨格となる。地盤の状態が官庁街と公園を分け、現在の白山祝田通りが分かれ道となっている。 |
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左下の官庁街と公園がはっきり分かれた周辺案内地図 |
不平等条約是正目的に官庁集中計画奮
不平等条約改正に躍起となる井上馨の心情は分からなくもないが、それがどうして、鹿鳴館で夜な夜な繰り広げられる振る舞いや、煉瓦造の立派な中央官庁庁舎の建設に直接に結びつくのであろうか。平成人でありかつ一般庶民であるところの筆者の理解を超えているが、それが明治というものだろうな、と一応しておく。
明治18年(1885)12月22日、日本国政府の体制は太政官制から内閣制に移行する。その内閣に直属で設置された臨時建築局のミッションが、「官庁集中計画」である。詳細な経緯・顛末については類書に委ね、ここでは触れない。ただ、現状確認できるその痕跡にだけ触れておきたい。千代田区霞が関一丁目1番1号に建つ重要文化財「法務省旧本館」、通称赤れんが棟が建築物としては唯一現存する。井上馨や指導したドイツ人建築家や建築技術者に対しては後世、さまざまなネガティブ評価があり、『明治工業史建築篇』(工學會・昭和2年)の記述などはひどいものである。しかし冷静に事の成り行きを見ると、やはり歴史的意義も見いだされるのである。我が国の品質の劣った従来の煉瓦の生産改善にあたっては、ドイツ人技術者を派遣して先端的な大きな煉瓦生産施設をいまの埼玉県深谷市に稼働させる。また、煉瓦職を含め日本人技術者・技能者の養成も進めた。今日の霞が関官庁街および国会議事堂の配置をフィックスした。また、すったもんだの挙げ句ではあったが、いまの日比谷公園が確保された。
霞が関の官庁街(左)は。白山祝田通りを隔てて街区の趣は変わり日比谷公園(右)が広がる。 |
銀座煉瓦 街
不燃化試みるも建築主には不評 | |
明治5年(1872)2月、和田倉門内旧会津藩邸(現皇居外苑)から出火した火災は、丸の内、銀座、築地など中心地を焼失させた。大火を契機に東京府知事由利公正は、焼け野原となった銀座1丁目から8丁目一帯すべての家屋を煉瓦建築にしたうえで、大通りの道幅を15間(27m)にし、歩道と車道を区別し街路樹も植える不燃化都市計画を立案した。また政府は、東京の全市街地の不燃化を構想する。これは財政難で頓挫したものの、銀座には西洋風の煉瓦造街並みが表れ、文明開化の象徴とも言われた。木造と畳の生活に慣れた日本人にとって煉瓦家屋は、湿気などで不評だった。空屋も多く発生、地主たちが政府に収入補填を求める騒ぎに発展した。一世を風靡した煉瓦街も関東大震災で壊滅、当時の名残りはない。 |
官庁集中 計 画
鹿鳴館に続く欧化政策 | |
明治政府にとって、不平等条約の改正は悲願だった。欧米の日本における治外法権の撤廃、対等な国交樹立が望まれていた。その一歩として、当時の外務大臣・井上馨は日本の文化を欧米並みにする、欧化政策を進めるため、明治16年(1883)に、ジョサイア・コンドルの設計で「鹿鳴館」を建設。さらにコンドルは明治18年(1885)に、官庁建築が整備された姿を諸外国に示そうと、官庁集中計画を2案作成したが実現しなかった。翌19年にはドイツ人技師ベックマンが官庁集中計画を作成。東は築地本願寺から西は日枝神社まで及ぶ壮大な計画だった。しかし官庁整備計画の権限は内務省に移り、計画も大幅に縮小し整備される。明治28年に竣工した司法省は、ベックマンらによって設計され、耐震性も強化し建設された。 |
煉瓦と煉瓦造は明治期の象徴
煉瓦と煉瓦造は明治時代の45年間をシンボライズするものであると断言していい。煉瓦造建築物は耐震性に劣ると云われる。それは正しいようで正しくもない。大正12年の関東大震災を契機に日本の煉瓦造は死滅したと云われる。それも正しいようで正しくもない。既に大正8年をピークに煉瓦生産量は下降に向かっていた。新しい建築構法である鉄筋コンクリート造への移行は時間の問題であった。巨大だった深谷市の煉瓦生産施設も平成18年(2006)、自主廃業、清算された。そこに残された建造物は重要文化財に指定された。故村松貞次郎博士は「今日の日本の建築技術や産業の基礎は、この明治の煉瓦の建築を主要な対象として築かれてきたのである。短かったが重要な時間であったということができよう。(『日本近代建築の歴史』昭和52年)」と評された。
昭和40年代、明治100年の頃、「明治は遠くなりにけり」という言葉が流行った。そして、明治どころか昭和も遠くなった明治150年の今日、「明治は超はるかに遠くなりにけり」である。煉瓦や煉瓦造にノスタルジーを感じるのも悪くないが、少しだけ積極的に評価してみるのもいいのではないか。社会になんとなく閉塞感がただよう今日、建設事業に代表されるものつくりにおける人間不在の虚無感に苛まれるのは筆者だけであろうか。そんなとき、煉瓦や煉瓦造を通して明治を想うのも一興であろう。明治の時代は若々しくてやる気満々、わくわく感に満ちて、失敗や破天荒なこともあっただろうが、明るくて元気だったと思う。
参考文献 | |
・ | 『明治の東京計画』藤森照信著 |
・ | 『 中央官衙の形成 霞ヶ関100年』建設省建設大臣官房官庁営繕部監修 |
・ | 『霞ヶ関歴史散歩 もうひとつの近代建築史』宮田章著 |
煉瓦のお 話
表記法と寸法 メートル法第1号は「煉瓦」 | ||
英語で書けばbrick、外来語なので和文に取り入れるとき、「ブリック」と表記するのはいい。しかし「煉瓦」は、れっきとした日本語なので、「レンガ」の表記はよろしくない。漢字で書くか、もしくは平仮名で書くようにしたい。JIS規格(日本工業規格)の名称は「れんが」である。
では、「煉瓦」の定義とはいったいなんなのか。私が建築研究所に入ったとき、上司の研究室長が「それは、片手で持てるものだ。ブリックだ」と言った。それに対して、持ち上げるのに両手を要するものがブロックだと。 |