井の頭恩賜公園(東京都三鷹市・武蔵野市) 
神田上水の水源。ここから1万2千年前の縄文人の遺跡が発掘されていますから住み易い土地だったのでしょう。もとは皇室の用地で大正6年に下賜されたので「恩賜」の文字があります。池の面積は6町、盛んなころの湧水は1日3万5千トンといわれますが、いまは池に水を補給しています。
 

 神田上水(ほかに南西部に供給した溜池上水もありました)は、三代将軍の時代になると参勤交代の制度と大名の正妻・嫡子の江戸在住制度により江戸在住人口が増えて供給が追いつかなくなり、幕府は新たに多摩川から水を引く計画をたて、羽村より四谷大木戸まで延長43kmの水路を開削する計画をたてます(四代将軍家綱治世下の承応2年(1653)年秋に起工からわずか8ヵ月で完成)。四谷大木戸までは水路で、ここからは地中に埋められた石樋や木樋が継手によって連結されて、江戸城および江戸市中(南部方面)に通水されました。
 工事を請負ったのは、庄右衛門・清右衛門の町人兄弟と伝えられ、翌年には四谷大木戸より虎ノ門まで暗渠が掘られ、江戸城と市内に給水されました。玉川上水(四谷御上水ともと呼ばれた)は、市中では飲料用と消火用に、近郊では灌漑用水となるなど、多目的に使われましたが、明治31年(1898年)東京に改良水道が完成したため、両上水とも明治34年には廃止されました。
しかし、現在も羽村取水堰から小平監視所からまでの約12kmは水道原水の導水路として使われ、小平監視所から浅間橋までの約18kmは、東京都の清流復活事業により下水の高度処理水が流れ、浅間橋から四谷大木戸までの約13kmは暗渠として、その上は公園・散歩道として利用され、水の流れは井の頭線高井戸付近で神田川に流れ込んでいます。このように、玉川上水の流れはいまの東京に健在です。
(以下次号)

神田上水の石樋(せきひ)
文京区本郷の、文京区立本郷給水所公苑内に復元されています。市内に給水するための石樋の内部寸法は上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120―150cmで、ここに長さ180cm、幅60cm、厚さ30cmの蓋石が、写真のように乗せられています。 神田上水の木樋・石樋の延長は16里29町2間に及びました。
  玉川上水取水口(羽村堰)及び水陣屋図(江戸東京博物館所蔵)
(玉川上水水口の図(たまがわじょうすいみなくちのず))
江戸末期〜明治初期/写
 
上水記(10巻)(東京都水道歴史館提供)
幕府の普請奉行上水方道方という役職にあった石野遠江守広道が、天明8年(1788)から寛政3年(1791)にかけて編纂した江戸の水道についての記録集。このような篤実な人物がいたおかげで江戸の上水事情はあきらかになっています。原本は、東京都水道局に保管されています。
神田上水の水神社
早稲田の近くを流れる神田川に向かって降りる胸突坂の下に、小さな水神社があります。
「上水開けてより関口水門の守護神なり」(「江戸砂子」)とあります。こんなところにも、いまの東京に江戸が生きています。文京区関口1丁目から新江戸川公園に渡る大滝橋の下流に、関口大洗堰がありました。松尾芭蕉は、このあたりで水道工事に従事していたと伝えられています。
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