利根川の東遷 舟運発達と新田開発で江戸繁栄に貢献
1590年、徳川家康が江戸に入った当時、利根川と荒川は越谷(埼玉県)付近で合流し、東京湾に注いでいた。度重なる洪水によって、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯だった。
利根川・江戸川分流点。分流点に設けられたスーパー堤防上にそびえる、千葉県立関宿城博物館から上流を望む。ここまで流れてきた利根川は、利根川と江戸川へ分流する。両川の向こう岸は茨城県だ。 |
そこで家康は、利根川と荒川を分離させ、利根川の流路を太平洋沿岸の銚子沖へと東側に大きく変えた。これが利根川の東遷事業だ。
具体的には1594年、利根川の中流域で二股に分かれまた合流する、南側の川の「会の川」(埼玉県羽生市付近)締め切りに着手。これが、人工的に流路を変えた第一歩と言われる。
1621年には、利根川と渡良瀬川をつなぐ「新川通り」と利根川と常陸川をつなぐ「赤堀川」(埼玉県栗橋から関宿間)の開削に着手する。会の川締め切りが、人工的に流路を変える瀬替えの第一歩なら、「新川通り」と「赤堀川」は開削という手法を使った人工河川の初弾と見てもよい。
その後1624年から1643年にかけ、利根川の分流となる江戸川・逆川開削によって、利根川・赤堀川から江戸川が分流する分岐点の関宿(千葉県野田市)が、水上交通の要衝として発展することになる。
赤堀川の通水は1654年。これによって利根川が小貝川、鬼怒川も併せて太平洋側に流れる「東遷事業」が完成した。赤堀川通水と利根川から分岐する江戸川との分岐点には現在、過去にその地を治めた関宿藩の城郭を模した、千葉県立関宿城博物館がスーパー堤防の上から、利根川の洪水や氾濫による先人の苦難の取り組みとその歴史を、訪れる人に語りかけている。
分岐点の「関宿水閘門」今も現役
利根川の東遷事業をより深く知るなら、「千葉県立関宿城博物館」がお勧めだ。野田市関宿三軒家にある同博物館は、利根川と利根川から分流する江戸川に挟まれた、スーパー堤防(高規格堤防)上に建設されている。東遷事業の推移を始めとする川の歴史や、近代までの利根川流域での洪水や治水の歴史、さらには河川によって育まれた産業や文化を分かりやすく紹介している。
博物館周辺は桜並木の公園で、過去に使われた浚渫機械の実物も展示されている。公園から橋を渡って目の前にある江戸川の中央部(中の島)まで歩くと、土木学会から選奨土木遺産として認定された、「関宿水閘門」を見ることが出来る。
国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
関宿水閘門は、江戸時代に江戸川流頭部で活躍してきた流量抑制施設の「棒出し」に代わる、コンクリート造の土木構造物である。利根川から江戸川に流れる水量を調節 し、船を安全に通行させる目的で、大正7(1918)年に着工し、昭和2(1927)年に完成した。
日本の大型建造物が、レンガ造りからコンクリート造へ変わりつつある時代に姿を現した関宿水閘門は、当時の建設技術を知る上でも貴重な建造物と言える。
荒川の西遷 利根川と切り離し江戸の洪水防ぐ
家康が利根川の東遷と並行して行ったのが1629年、利根川と合流する「荒川」の流路を、それまでの川(元荒川)から西側にある入間川に流れ込ませ、最終的には隅田川として東京湾に流す、「荒川の西遷」であった。利根川から分離するための付け替え工事を行った場所(埼玉県熊谷市久下)から「久下の開削」とも呼ばれる。
利根川の東遷が、銚子から利根川と江戸川を経由した舟運ルートを確立させたのに対し、荒川の西遷は、上流域から江戸への木材運搬に効果を果たした。一方で荒川の西遷によって、荒川の洪水リスクはより江戸に近づくことになった。江戸城下を荒川の洪水から守ろうと、上流側で洪水を溢れさせるための、日本堤と隅田堤が整備された。
ただ、日本堤と隅田堤は、江戸城下を守るためのものであった。隅田川から東側は、たびたび洪水被害に遭っており、明治時代の大洪水を契機に、荒川と隅田川を分離し、新たな荒川を人工的につくることになった。ここに「荒川放水路」が着手されることになる。
江戸から東京に名称が変わるなかで、明治新政府は帝都建設と欧米列強に追いつくための工場立地を進めた。農村やその周辺は、市街地の拡大・工場用地化という土地利用の高度化で様相を大きく変え、その結果、農村地帯だったころとは比較にならないほど河川氾濫による被害が深刻になりつつあった。明治末期に荒川から隅田川を分流させ、「荒川放水路」として新たな荒川の掘削に取り組んだ最大の理由がここにある。
工業化と都市化は、度重なる河川氾濫と浸水被害を許さなかった。荒川放水路が完成した後も都市は拡大し、戦後復興以降、都心部を水害から守る放水路の役割は更に重要となる。昭和の高度成長期には、想定する洪水流量の見直しも行われるなど、周辺河川とともに新たな河川改修事業が進められている。
荒川は江戸時代の「荒川の西遷」、明治に着手し昭和初期に完成した「荒川放水路」という二大治水事業によって、江戸時代から続く東京の生活と都市の発展を支えている。
20年かけ「荒川放水路」完成
岩淵水門が荒川と隅田川の分岐点に
100万都市・江戸を支えた「利根川の東遷 荒川の西遷」。そして「荒川放水路(現在の荒川)」開削は、昭和の時代から現在に至るまで「首都・東京」の街を洪水などから守る役割を果たす起点となった。20年の歳月をかけ、北区の岩淵に水門をつくり、それまでの荒川の本流を水門で仕切り、岩淵から東京湾に注ぐ、延長22km、幅500mの新たな放水路(現在の荒川)を開削する大規模工事だった。第一次世界大戦による不況、台風被害、関東大震災など幾多の困難を極めながら、昭和5(1930)年に完成した。
「荒川放水路」完成によって、岩淵水門で水量を調節できるようになったそれまでの荒川本流は、いま「隅田川」となり、荒川放水路が「荒川」と呼ばれている。
国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
現在の岩淵水門 |
荒川放水路は、明治43(1910)年の大洪水をきっかけに、東京の下町を水害から守る抜本的対策として着手。放水路の肝となる岩淵水門は、パナマ運河建設に携わった、当時日本を代表する土木技術者だった青山士(あきら)が設計・施工に尽力した。
明治・大正・昭和の3時代にかけ、流域人口500万人超の住民を水害被害から守るために行われた、「荒川放水路」の着工から完成までの過程や、荒川の歴史と放水路完成による、さまざまな効果については、国土交通省関東地方整備局の荒川下流河川事務所が発刊した『荒川放水路変遷誌』に見ることが出来る。