人口推移は、社会と生活の安定、保健・医療などの公衆衛生向上などさまざまな要因が影響すると言われている。260年以上にわたって徳川幕府が続いた時代、江戸(現在の東京)が人口100万人を超える世界最大の都市に成長したのも、安定が大きな理由だったとされている。
明治期に入ると、人口増加はさらに加速度を増していく。内閣統計局の「明治五年以降我国の人口」と「国勢調査」をつなぎ合わせて見ると、明治5年(1872年)の日本の総人口は3480万人。40年後の明治45年(1912年)には1500万人増、率にして4割増の5000万人を突破した。その後、明治5年から65年後の昭和12年(1937年)には明治5年時の2倍を超える7125万人に達した。
日本の人口が1億人を超えたのは、奇しくも明治元年(1868年)以来100年目に当たる昭和42年(1967年)、高度成長期まっただ中だった。100年で人口は約3倍にまで拡大したことになる。
人口はその後も増加を続け、平成20年(2008年)には1億2808万人とピークを記録したが、その後人口は減少に転じた。また、平成27年(2015年)の国勢調査には、「1920年の国勢調査開始以来、初めての人口減少」と明記され、日本は人口減少+高齢化という2つの課題を抱える先進国で唯一の国となった。
明治政府が力を注いだ世界からのさまざまな技術導入、日本人技術者に加えお雇い外国人(技術者)と呼ばれた土木・建築の外国人技術者たちのサポートもあって、農業生産力の増大と工業化による経済発展に伴う所得水準向上・生活の安定、公衆衛生向上が人口増加と日本の発展に貢献した。
世界情勢
パリをスクラップアンドビルド |
日本の政治体制が徳川幕府から明治政府に代わり、「江戸」から「東京」への移行を決定づけた明治元年、ヨーロッパ有数の都市だったパリでは、建物を強制的に壊し、開放的で衛生的な近代都市を整備する、いわゆる「パリ大改造」が進んでいた。当時、パリ市も管轄するセーヌ県知事を1853年から1870年まで17年にわたって務めたジョルジュ・オスマンはナポレオン3世の構想に沿って中世以来の複雑な路地裏やスラム街を取り壊し、上下水道の整備や統一的な都市景観になるよう大規模な都市改造に取り組んだ。 |
シカゴ大火 摩天楼の都市の揺籃 |
明治維新から3年後の1871年、アメリカ・シカゴ市内で発生した「シカゴ大火」は、1万7000以上の建造物が全焼、10万人が家を失った大災害だ。多くの被害を出した一方、古い建物が軒並み焼け落ちたことで、大規模建築が可能な空間・敷地が確保できた。 |
日本の近代化 インフラが寄与 |
元号が明治に代わった。欧米列強に追いつくため明治政府は、「鉄道」と「郵便」の整備と全国展開に着手した。全国各地で集中的に行われた交通と通信のインフラ整備は、その後大正・昭和と続く日本の近代化を導き、世界有数の先進国に押し上げる礎になった。一方、建設産業界の視点からみても、国が全国各地で鉄道網整備を行ったことで、鉄道工事を請け負う請負人や請負業者が生まれ、現在の建設業の礎が築かれた。さらに明治政府が郵便事業を開始したことで、各地で大規模・小規模の郵便局舎建設需要が発生した。官庁建築をリードし著名建築家も輩出した逓信・郵政建築は、建築の施工にも影響を与えた。明治維新以降の日本の近代化と成長を支えた鉄道と郵便インフラ整備には、建設産業も大きく寄与・貢献してきた。
日本の土木を鉄道工事が牽引
日本の鉄道は、明治5(1872)年の新橋・横浜間の開通を第一歩として、明治末期までにはほぼ全国の幹線網が完成した。そもそも鉄道敷設計画は、明治2(1869)年11月、東京と京都を結ぶ幹線と、東京・横浜間、京都・神戸間及び琵琶湖畔から敦賀までの3支線、計4路線の鉄道を建設するという政府決定がなされた。これが、我が国における鉄道建設計画の最初とされる。
明治新政府にとって、政治制度の全国的統一、軍事力の強化及び近代諸産業の育成などいわゆる富国強兵と殖産興業政策を推進するため、その媒介となる近代的輸送システム確立は急務だった。鉄道は、陸上の重要な輸送手段としての役割を担っていた。そのため、建設資金調達や技術導入など大きな課題はイギリスの支援を受けながら、また陸上交通の主力だった馬子や車曳きの妨害に阻まれ、軍部の抵抗を受けるなど幾多の困難に遭いながら、イギリスの鉄道開業に遅れること47年、アメリカの鉄道に遅れること42年後の明治5年9月に完成、同年12月には日本最初の鉄道が新橋・横浜間で開通した。
また、京都・神戸間は明治10(1877)年2月に開通したが、西南戦争など国内混乱による財政悪化により鉄道建設は停滞し、予定線全ての完成は、政府決定から20年後の明治22(1889)年7月の東海道線全線開通まで待たなければならなかった。
全国の幹線網が整備された明治期の鉄道整備の大きな特徴に、慢性的に財政が逼迫している政府に代わって台頭した、民間資本による私設鉄道の成長が挙げられる。明治14(1881)年には、上野・青森間の鉄道敷設を目的とする日本最初の私設鉄道「日本鉄道会社」が、そして明治25(1892)年までに全国各地で50社近い私設鉄道が発足した。明治23(1890)年度には官設鉄道延長886㎞に対し、私設鉄道の延長は1366㎞と官設鉄道の敷設距離を上回るまでに成長した。
しかし明治政府は明治25年の鉄道敷設法で「鉄道建設は官設を建前」にし、日露戦争後の明治39(1906)年の鉄道国有法によって私設鉄道が買収され、明治末期の全国の鉄道の9割余が官設鉄道となった。
この全国各地の鉄道建設を担っていた多くは、現在の建設業創業者たちだった。当時、請負人として請負工事にかかる課題を解決するための議論の場を設け、これが業界団体の源流となった。まさに明治の鉄道工事が土木業界と業界団体を形づくった。
(参考・国土交通省『日本鉄道史』、運輸省50年史序編)
鉄道 第一歩は新橋・横浜間開通 |
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日本の鉄道の第一歩となった新橋・横浜間。起点となった新橋には、汐留地区再開発に合わせ、旧新橋停車場駅舎が、当時の外観のまま復元された。写真は2003年4月7日に開かれた竣工式 | 鉄道開業式における明治天皇奉迎 (明治5年・現桜木町駅。出典:日本鉄道請負業史) |
官庁建築の先鋒、建築家も輩出
明治政府は、明治4(1871)年、国家近代化事業の一つとして、「郵便事業」を創業(所管は当時の民部省)する。具体的には、西洋の通信システムを参考にしながら、実際の物流には江戸時代からの宿駅制度も活用した。新たに始めた郵便制度は、従来の公用・民間の飛脚便とは、①国営、②切手による料金前納、③ポスト設置、④宛て先配達、⑤全国均一料金――など大きく異なっていた。
財政難に悩む明治政府だが、郵便制度は短期間で全国に普及させたい。そのため「日本近代郵便の父」と言われる前島密は、各地の名主や資産家などに、郵便取り扱い役の辞令を与え、土地や建物の無償提供によって郵便局を開設した。これによって、創業した明治4年に179局だった郵便局は翌年には1159局に増加、このうち国が直接経営した郵便局は21局だった。
明治18(1885)年には逓信省が発足、太平洋戦争終戦後には郵政省が発足した。この逓信省、郵政省・郵政公社が管轄した建物が、「逓信建築」、「郵政建築」と呼ばれ、近代建築の模範として、明治・大正時代の完成度の高い様式建築を生んだだけでなく、戦前・戦後の建築界もリードしてきた。
門司電話局や千住電話局などを設計した山田守、東京中央郵便局や大阪中央郵便局の設計で知られる吉田鉄郎といった著名建築家も輩出。戦後は郵政建築として、「簡明な建築」、「妥当な建築」をモットーに公共建築スタイルに妥当性と普遍性を与えた、「庇の建築」(郵政スタイル)が全国に普及した。各階に庇を回すスタイルは、外務省のほか裁判所や市役所などに広く採用された。
そのため逓信建築、郵政建築の施工を担う建築業界にとっても、逓信・郵政建築の思想を理解し設計意図に応える対応をすることが業界発展につながった。
(参考・総務省の親書便年報、観音克平元郵政省企画調査室長の「逓信建築から郵政建築への軌跡――もう一つの近代建築史」講演)。
JPタワーの商業施設「KITTE」。低層は新築部分と旧東京中央郵便局舎の保存部分とが共存する。4階には当時の素材を使った旧東京中央郵便局長室が再現されている。 |
最古の西洋建築郵便局は1900年 |
現存する現役最古の西洋建築の郵便局は、明治33(1900)年に建設された、山口県下関の「下関南部町郵便局」。外壁のレンガは厚さ60㎝という堅固なつくり。設計は逓信省技師の三橋四郎。隣の旧秋田商会ビルとともにライトアップされ観光客を楽しませているという。(下関市公式観光サイトより) |
法政大学「江戸東京研究センター」を設立
西洋型と異なる都市のあり方研究
江戸東京研究センター設立のプレイベントとして開かれた、シンポジウム・都市東京の近未来で基調講演する陣内秀信センター長。同センターは4つの研究プロジェクトを通じて今後、東京らしい近未来都市の住み方の提言も行う予定 |
「江戸東京のモデルニテの姿―自然・身体・文化」をテーマにセッション |
シンポジウムでは建築家の槇文彦氏が講演 |
法政大学は、明治維新150年の2018年、「江戸東京研究センター」(センター長・陣内秀信法政大学教授)を設置し、明治維新によって日本の社会システムをヨーロッパ文明の社会システムに切り替えた、江戸から東京を通して見る文明論的な研究を開始する。江戸東京研究センターは、国の私立大研究ブランディング事業助成対象となる2021年度までの5年事業。
センターは、「江戸東京から持続可能な地球社会の未来を目指す」を目的に、①水都―基層構造、②江戸東京のユニークさ、③テクノロジーとアート、④都市東京の近未来――という4つの研究プロジェクトによって、▷江戸東京のユニークさ解明、▷古代まで遡り根源を探る、現代東京も考究するなどこれまでの江戸東京研究の蓄積を活かす、▷持続可能な近未来都市の提案、▷江戸東京研究の世界に向けた発信――などを今後行っていく予定。
同センターはすでに2月、本格的活動に先駆けシンポジウム「都市東京の近未来」や、センター設立記念国際シンポジウム「新・江戸東京研究~近代を相対化する都市の未来~」を相次ぎ開いていた。このうち国際シンポジウムでは、建築家の槇文彦氏が「ヒューマニズムの建築を目指して」と題して基調講演を行った。槇氏は江戸東京の都市としての特徴の一つとして、「人口増大に伴って(都市の)外でなく内側に向かった」ことを挙げ、「大名屋敷の細分化と町人町が奥へ向かい路地を形成することで細粒都市になっていった」と指摘した。