市谷仲之町交差点より北川を望む。写真奥は市谷の薬王寺町付近。写真手前まで続いていた片側3車線の幹線道路、外苑東通りも信号の先はいきなり片側1車線の道路になる。道路として機能してはいながらも、薬王寺町から市谷柳町まで片側1車線が続く部分がある。外苑通りと呼ばれる道路は、過去の震災復興計画を経て戦災復興計画で作られた環状3号線の一部だ。環状と言いながらもところどころで道路が分断。道路拡幅には用地買収等多くの労力とコスト、時間がかかる。 |
――東京150年を都市づくりの視点から見ると、どのように映りますか
150年間で3つのキーワードがあります。1点目は、明治期の「東京市区改正」が構想倒れに終わったことです。2点目は大正時代に発災した関東大震災後の復興計画が一部しか実行できなかったことです。
3点目は戦災復興です。占領下で復興事業が思うようにできませんでしたが、それから70年かけて東京は、今日のロンドンやニューヨークをしのぐ都市に成長しました。戦後70年の取り組みは、都市計画史上、輝かしい歴史だといっても過言ではありません。いまなぜ、欧米の人たちが日本を訪れるかというと、快適な都市だからで、快適性が垂涎の的になっているからです。今日の東京に誇りを持つべきです。
東京150年 青山氏が指摘する3つのポイント | ||
①構想倒れに終わった「東京市区改正」
②縮小と削減「関東大震災帝都復興計画」 ③理想追うも届かず「戦後復興」 |
――戦後70年が輝かしい歴史なら、明治と昭和の戦後70年の、東京の都市づくりはどのような違いがあるのでしょう
都市づくりにかける思い、DNAは同じです。けれども古今東西、巨大都市の都市づくりが計画どおりに進むことはありません。特に歴史のある都市では、経済活動や生活を営みながらつくり替えていくので、当然、絵に描いたようにはいきません。その意味で、さまざまな計画の実行が中途半端だったという「痛恨の思い」が蓄積したことが、東京の都市づくりのエネルギーになっていたのかもしれません。
都市として東京がユニークな点もあります。江戸城 (現在の皇居)が今だに東京の中心になっていることです。不動産会社が東京都心の地価分布図をつくると、中心点は皇居です。こんな都市は世界でも例がありません。さらに、皇居を中心にした環状構造です。この環状構造と放射状を組み合わせて、鉄道や道路などが整備されている。
また、公共交通に対する依存度が、世界の他の大都市と比べて格段に高いのも東京の特徴です。例えば鉄道ですが、戦後70年は、アメリカも鉄道発祥の地であるイギリスも、鉄道を衰退させた70年でした。
これに対し日本は真逆の政策を選択します。新幹線を整備し、東京の地下鉄も一貫して整備してきましたが、その間に世界の大都市は地下鉄を駄目にしてきました。これが、ある意味では東京の快適性につながっています。CO2削減や環境にやさしい都市づくりです。日本は新幹線ネットワークによって、国土構造も変えた。欧米とは真逆の都市・街づくりをしてきた代表例が「鉄道」といえるかもしれません。
もう一つの特徴は、1964年東京五輪を契機にした「道路」です。都市内に連続立体交差道路を整備しました。首都高などが代表例ですが、欧米にはない発想です。自動車交通に依存しているのに、ロンドンやニューヨークの都市内道路はすべて平面交差です。だから東京都内も道路渋滞はありますが、ロンドンやニューヨークのような絶望的渋滞はありません。都市内に連続立体交差道路を整備したからです。これが1964年からの50年間です。欧米と真逆の発想と政策が効を奏したわけです。これは日本独特の発想です。
南青山方面から東京タワー方面を望む。右手の六本木ヒルズから左手の虎ノ門まで面開発が連担している。連担は虎ノ門から新橋・汐留、竹芝、浜松町、さらには品川まで達する。 |
先達の慟哭が聞こえる
――日本には都市政策、都市計画の視点がないとの指摘もありますが
それは、無知からの指摘です。明治期の東京市区改正、震災復興計画、実行されなかったけれど戦災復興計画など、極めて優れた都市計画がありました。要するに、都市計画がなかったわけではなく、都市計画はあったが、その時の政治家が実行しなかっただけにすぎないということです。つまり東京150年は、「痛恨の歴史」だったといえるかもしれません。なぜなら、その時々の計画に基づいて都市づくりができていれば、コストはずっと安く上がっていたからです。典型的な例では、山手通りがあります。戦災復興計画では幅員80mの道路を整備するはずでしたが、お金もなく政治決定もできず結局22mの道路となったわけです。それを私たちの世代が40mに広げたわけです。地下鉄大江戸線と首都高中央環状線整備のためでした。少なくとも計画通り進めていれば、事業や住んでいる人たちに、多大な犠牲を払って立ち退いてもらうこともなかったわけです。私には先達の慟哭が聞こえます。
一方で今の私たち世代は、次の世代の生活の利便性や産業・経済の基盤となるインフラを追加していくことも求められています。都市計画は継続しています。だから、計画されながらもできなかったという失敗が過去にあったとしても、それを私たちが今、整備しているということを考えれば、都市づくりに失敗も成功もありません。また、世界の大都市のなかで、150年にわたって一つの思想を持って継続的に取り組んでいる都市は、東京以外にありません。
ただ鉄道について言えば、東京はこの5,6年、副都心線を最後に新たな地下鉄が整備されていません。そのなかで東西線の場合、門前仲町と木場間の乗車率は199%です。この混雑数字は高度成長期でさえ見られなかった数字で、極めてひどい混雑です。
人口は減っても、住まいや働く場所が変わるのは時代の必然です。だから掘るべき地下鉄を整備していないことを、政治と行政は反省すべきです。人口減少時代だから新たな地下鉄延伸は必要ないと思ったら、大きな間違いです。
東京は連坦の都市づくりへ
――これからの首都・東京に必要な都市づくりの視点は
まず今後必要なのは、数十年間手がつけられなかった地下鉄延伸など、優先的に検討することを決めた事業に着手することです。今年度の東京都予算でも、地下鉄建設準備基金が設置され、今後1兆円規模で積み立てる予定です。
東京都は昨年公表したグランドデザインで、都心的な地域の定義をそれまでの「山手通り内側」から、「環七内側」に広げたことを正式に表明しました。これは都心部機能の集積が進み、都心中心部に大きな変化が生まれているということです。つまり、フェーズ1がビル単体の建て替えだとすると、フェーズ2は面開発と言われる複数のビル建て替えで機能的に連携(例えば六本木ヒルズ)、今はフェーズ3の段階に入っているのです。面開発同士がつながりつつある、言い換えると面開発が連担しているのです。これが近年の東京の魅力です。
具体的には、大手町・丸の内・有楽町いわゆる「大丸有」がつながっている。さらに、常盤橋、日本橋、八重洲ともつながりつつある。つまり、東京駅を中心に大丸有から、常盤橋、日本橋、兜町などを加えた大きな都市軸ができ上がりつつあります。
もう一つの都市軸は、六本木、赤坂、虎ノ門から新橋・汐留、浜松町、竹芝まで連なる都市軸です。赤坂から竹芝まで街が連担してつながるわけですが、こんな都市は世界を見ても東京以外ありません。その結果、東京の魅力と街の価値は高まることになります。
だから東京に必要な視点として重要なのは、魅力的で快適な環境を提供することになる連担した面的開発の流れを止めないことです。
都市としては多摩地域を考える必要もあります。20世紀と違って、業務の床が増えると夜間人口も増える傾向があります。過去には都心部にビルが建設されると、夜間人口が減少するという傾向が確かにありましたが、現在は圏央道沿いに流通センターなどが整備されると、その周辺部で夜間人口が増えるのです。
これからは、多摩地域のどこで業務系床が増えるかということよりも、都市構造が変わる中での対応が必要です。例えばリニア中央新幹線整備によって品川周辺が発展するだけでなく、途中駅の橋本駅整備でも、相模原市、八王子市、町田市、多摩市などの業務床の価値が向上します。
また鉄道を例に挙げると、今後、数十年乗客が減らないといわれている路線は、つくばエクスプレス(TX)とJR武蔵野線です。いずれも街が若いからです。意外かもしれませんが、TXと武蔵野線の将来は明るいのです。
一方この3、4年、都市農業に関わる、さまざまな法改正がされました。これまで市街化区域内農地は無くしていく方向でしたが今は、都市計画法のなかで生産緑地を考える方向に変わっています。都市計画も20世紀的考えでは間違えてしまう。時代の変化に合わせ変えていくことが必要です。
参考文献 | |
・ | 『痛恨の江戸 東京史』青山佾著 |
・ | 国立公文書館 デジタル展示「変貌 - 江戸から帝都そして首都へ」 13、31、32、42、46、54 |
・ | 『明治の東京計画』藤森照信著 |
・ | 東京都「広域交通ネットワーク計画」 |
・ | 国土交通省 交通政策審議会「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」答申 |
・ | 平成30年度 東京都予算案の概要 |
東京都鉄道新線6路線の事業化検討で基金創設 |
東京都は2018年度、新たな基金として「鉄道新線建設等準備基金」を創設する。2030年ごろを念頭に置き、鉄道新線建設へ向け検討を深める事業として6路線を先行して議論を進める。6路線は、国土交通省の交通政策審議会が2016年4月にまとめた、東京圏の鉄道整備指針「東京圏における今後の都市鉄道のあり方」答申で打ち出された24プロジェクトの一部。 |