――東京150年を都市計画・建築の視点からどう評価しますか
ヨーロッパも含め産業革命以前の前近代都市の構造やインフラは、近代都市では使い物になりませんでした。例えば交通一つとっても前近代都市では、わざと不便なように作っているわけです。ヨーロッパを例にすると、都市を城壁で囲み、中に入ったら道路は狭くぐちゃぐちゃになっている。日本も城壁こそありませんが、堀や石垣、意図的に曲げた道などが見られる。まことに閉鎖的な都市だったわけです。
一方、近代の都市は鉄道、道路など交通インフラの充実が重要視されます。しかし日本の場合、住宅も悪かった。なにより、上下水道の整備が課題でした。前近代では上下水道の未整備で病気が蔓延しても「しょうがない」で済まされてきましたが、近代都市を標榜するからには、そうはいかない。国民がばたばたと死んでいては、近代化ができないからです。
要は、近代都市以前からあるもので近代化に役に立たないものを改造するのが、近代都市構築の大前提だったわけです。ヨーロッパでは、まず城壁を除くことでした。その後、ごみごみした街中に大きな道路を整備する。それから工場や市場など物流などの用地を確保し、広場や緑地も整備した。そのうえで、きちんとした住宅をつくったわけです。
日本も、ヨーロッパをにらみながら、封建時代の都市・お城を中心にした都市を近代に合うようにと考えます。例えば「鉄道や道路をきちんと整備しよう」とか「上下水道も整備する」という考え方です。
ここで東京という都市の性格をどうするかという、都市の性格論も白熱します。一つは、ヨーロッパに負けない日本帝国の首都にする目標を掲げた、いわゆる「帝都」構想です。この考え方は外務省が牽引したものですが、壮大で華麗な官庁街を整備することで欧米列強に先進国だと認めてもらい、不平等条約是正につなげることを悲願にした外務省が、「官庁集中計画」を主導します。一方、内務省は現実的な選択として、「帝都」構想とは別に打ち出したのが、それまでの鉄道、道路といった交通インフラ優先だけではなく、生活の質向上も見据え、上下水道整備といった現実的必要性を判断したインフラ整備を優先する考え方です。都市計画の源流で東京大改造計画である「市区改正計画」を進めるうえで、より現実的な対応が必要だったのです。
そして最後3つ目は、東京をアジアの「商業都市(商都)」として世界に向かって開いていく考え方、交易によって東京、日本を発展させようという考え方です。当時、香港や上海が握っていたアジアの交易の主導権を、東京が握ろうというものです。アジアの交易で東京港がハブの役割を担おうと考えました。澁沢栄一や益田孝といった当時の新興実業家たちが、日本は貿易立国を目指すべきであると主張、実業家が政策実現への牽引役になりました。
明治期の東京には、「商都」を主張する実業家らによるグループ、ヨーロッパに負けない壮大な首都である帝都をつくろうとする「帝都」を主張する人たちのグループ、さらにはもっと実用的に鉄道や道路、上下水道の整備を優先する3つのグループの構想があったのです。そしてこの3つのグループはそれぞれの案を提起し、それぞれが実現へ動き出しました。
「帝都」構想が打ち出した官庁街整備は、縮小を重ねながらも霞が関にその姿を残す |
商都=兜町に一大ビジネス拠点整備
明治18年(1885)10月に立案された市区改正審査会案。市区改正審査会は、明治17年11月に東京府から内務省に上申された「市区改正芳川案(東京府知事芳川顕正案)」の適否を諮るため同年12月に内務省内に設置された。明治18年2月から同10月までの長丁場を経て、同会は築港を軸とする商都化に傾いた、「市区改正審査会案」を決定する。しかし審査会案は、政府内で2年間も棚ざらしに遭った後、商都構想の要となる「築港」が廃されることとなり、商都化は後退していく。 |
まず「商都」計画の大きなカギは、交易拠点となる港を東京に作ることでした。すでに存在した国際港湾・横浜の機能を、東京に持って来る、いわゆる「東京築港」です。具体的には隅田川河口に国際港湾を整備して横浜港の代わりをさせようというものでした。そしてその周りに商業都市をつくろうというものです。これを澁沢や益田たちが推進した。この構想、どこまで実現したかというと、ビジネスセンターを兜町につくる兜町ビジネスセンター街は実際にできました。当時の日本の主要企業全てが集まりました。現在の超有名企業です。そのほか、商業ジャーナリズム、株式取引所、商工会議所なども集まりました。しかし肝心の港が出来ない。その結果、企業は兜町を離れ、日本橋や大手町、丸の内、日比谷に移って行ってしまいます。
なぜ東京築港が実現しなかったのか、横浜在住の外国人が納得しなかったことが大きな要因の一つです。横浜は治外法権下で、その恩恵を受けている外国人達にとって港湾利権が東京に移ることは死活問題です。彼らは政府に圧力をかけました。結局、東京港の整備は昭和期の太平洋戦争前まで待たなければなりませんでした。明治期は港ができないことで、兜町ビジネスセンター街構想が消滅しました。ただその名残が、東京証券取引所として今も兜町に存在しています。
一方、「帝都構想」は、官庁集中計画を外務省が主導しました。「官庁集中計画」という巨大な官庁街整備構想の名残は今も、法務省の赤煉瓦庁舎として残っています。現在の霞が関官庁街と日比谷公園も官庁集中計画の名残です。
当時の都市計画、3つの計画・構想に共通しているのは、それぞれの勢力が夢を見て全体計画を出すわけです。実際それは動き始めるけれど、途中で計画が縮小しながら進むわけです。それぞれがなんとか実現していくわけです。
日本の都市計画は少し変わっているように思います。代表的なのが山手線です。それぞれ違う目的で出来た路線がいつの間にか、一つにつながって使われていますね。例えば、上野~新橋間は東北と東海道の路線をつなぐものです。新宿~品川間の路線は、八王子から絹を運ぶための路線でした。それぞれ違う目的の路線がつながって丸くなっています。部分的なものがそれぞれ実現して全体が出来るというのは、いかにも日本的だと言えます。パリのように大計画を立て実行するということとは違います。これは日本の都市計画の特徴であり、もしかしたら宿命のようなものかもしれません。
日本の都市計画は、大災害や戦争などで復旧・復興のために大胆な計画も立てるが、全体的にはうまくいかない。ある程度は実現するというのが、日本の特徴、宿命、運命なのかなと思っています。
現在の東京証券取引所。東京株式取引所から140年にわたり、兜町の地で取引の場として存在し続けている。兜町は国家戦略特区に指定され、国際金融都市への再開発に拍車がかかる。 |
新たに品川が東京の顔へ
結節点として、新たな東京の顔となる可能性を秘めた品川。さらに2020年、品川~田町間には新駅が開業する。写真は工事が進む新駅建設予定地。 |
――これからの東京についてどう考えますか
過去と同様、同心円型の考えで都市は拡大しています。鉄道や道路も、例えば皇居・東京駅を中心にしています。世界の都市も同様に、同心円的成長です。
そのなかで今注目し、面白いと思っているのが、羽田の影響です。空港の活性化・拡大が都市にどのような影響を与えるのか、今のところはっきりしていません。一方で、鉄道や道路が明快に都市を大きく動かしてきたのは紛れもない事実です。都市を大きく動かすということは都市の中心点を動かすという意味です。そのなかで空港も都市の中心を動かす可能性があると思っています。さきほど同心円と言いましたが、中心が動くことで同心円がゆがむのです。
そのゆがんだ同心円、楕円形にする力として、新幹線が挙げられます。同じように羽田が同心円の中心を羽田側に引っ張っていると思います。羽田を引っ張っている玄関口は品川です。つまり空港とリニアの結節点である品川に、相当大きな力が来るのではないかと思います。
他には湾岸のタワーマンションに注目しています。私は、東京を代表する新しい風景は、湾岸のタワーマンションだと思っています。美しいと思うのは隅田川河口地区に立地するタワーマンションです。
明治期、澁沢たちが推進しようとした隅田川河口の東京築港計画地が、今はタワーマンションになっていると考えるとまた感慨深いものがあります。東京駅の光景も美しい。復原された東京駅があり、丸の内ビジネス街が広がる風景です。この2つが東京の顔と言って良いと思います。
リニアが開通し羽田がさらに拡大した時、品川が東京の顔の3番手になるかもしれません。
帝都v s 商 都
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