明治期に策定された「東京市街地高架鉄道」の計画・建設から窺える
幾つかの画期的ポイント
① | 汐留(東海道線の終着駅)、上野(東北線の終着駅)を廃し、両線を直結させるとともに、その中間の皇居に面する位置に通り抜け式の中央駅(現東京駅)を設ける計画とした |
② | 両路線を結ぶ線路をそれぞれ複線の長距離列車線・近郊電車線 計4線とした |
③ | 駅裏側(現八重洲側)に貨物駅用地として広大な用地を確保した |
④ | 施工現場における現場重視主義 |
――明治期の鉄道事業に、日本全体や東京に影響を与えた転換点として何があったとお考えですか
「我が国最初の鉄道は、官が建設し官が運営するいわゆる官営鉄道として開業しましたが、その後の鉄道の建設・運営は民間鉄道会社が牽引したことが最大の特徴として挙げられます。明治39年(1906)の鉄道国有法施行の直前では、民営鉄道が山陽本線、東北本線などの主要幹線を始めとして、その営業キロは全体のほぼ7割を占めていましたが、国有法の施行によりその比率は1割にまで減少しました。官営鉄道は長距離の主要幹線のみならず、短距離の都市近郊鉄道も経営することとなり、その後国鉄に引き継がれていき、高度成長期には高速・大量輸送を実現する新幹線の整備へと歩みを進めることになります」
電車列車が日本の新幹線の礎
激しく混雑する機関車列車 |
「前述のように、日本の官営鉄道は短距離都市近郊鉄道も併せて経営することとなり、それを通じて客車の下にも動力(電動機)がある電車運転の経験を積むことになりました。東京市街線高架鉄道に長距離列車線2線と近郊電車線2線が計画されているのはその典型的な事例です。長距離列車の運行を主な使命にして いる諸外国の国鉄では、機関車が客車を牽引する機関車列車が主流です。しかし、日本の官鉄、後の国鉄は明治末期以来の長い電車運行の経験を積み、それが電車方式の新幹線=動力分散方式による高速鉄道の誕生を決定づけたと言えます」
――なぜ日本の場合、電車方式が採用・拡大されたのでしょうか
「私は、太平洋戦争終了直後の極端な輸送力不足を解決する手段として電車運転の様々な利点が見直されたことが大きいと考えています」
「列車の牽引力(輸送力)は列車全体の動輪軸重に比例しますから、客車の床下にもモーターがある動輪軸数の多い電車は、それぞれでは小さい動輪軸重で、大きい牽引力を実現できます。このことは線路保守費の軽減に大きく寄与します。また始・終着駅での折り返しを行う時間を節約できるため、列車運行の間隔を小さくできます。従って複線化のような大きな投資を必要とせずに輸送力を顕著に増大することが可能です。このことは、敗戦直後の貧乏な日本にとって誠に好都合でした。東京発・熱海行きのような比較的長距離の近郊列車が電車化され(湘南電車)明るい色の車体とともに好評を博しました。遂には機関車列車の最後の牙城だった東京・大阪間の特急『つばめ』も国鉄部内での大論争の末に電車化されました。その議論の決め手になったのは、低廉な軌道保守費でした。その直後に具体化された新幹線の構想では最初から電車方式が採用されました」
「電車方式の利点はこのほかにも、回生ブレーキの使用など数多くあります。更には交流電動機の採用で、モーターが軽くかつ保守が簡単になったことも利点として挙げられます」
昭和29年(1954)に、東海道線の看板特急「つばめ」が機関車牽引列車から電車列車に置き換えられた。
――東京市街地高架鉄道計画で後代に大きな影響を与えたものは他に何がありますか
「汐留(東海道線の終着駅)、上野(東北線の終着駅)を廃し両線を直結させるとともに、その中間の皇居に面する位置に通り抜け式の中央駅(現東京駅)を設ける計画としたこと」はその一つです。欧州の諸都市では鉄道以前に都市が形成されていたため、鉄道は都心を貫通することが困難で、城壁の近くに終着駅を設けている事例が多いのですが、東京都心の場合は堅固な建築物が少なく都心の貫通が可能でした。都心を貫通させることで鉄道利用者の利便は大いに向上しました(一方ではこれにより生じた都心一極集中への非難もありますが)」
「東京駅計画に際して、現八重洲側(東側)の外濠までの間の広大な空閑地を貨物駅としての名目で確保したことも挙げられます。バルツァーを始めとする計画当事者自身も都心中央部に貨物駅を置くこと自体には疑問を持っていたことは窺えるものの、この用地は大正3年(1914)の開業当初には客車操車場として使用され、現在では新幹線ホームおよびデパート用地として大活躍しています。遠い将来を見通した慧眼だったと思います」
「この東京市街地高架鉄道計画を建設するために、新永間建築事務所が創設されました。この事務所はその後、東京改良事務所、東京工事事務所など名称を変えながら、国鉄、東日本旅客鉄道(株)(JR東日本)が組織と役割を引き継いでいます。明治期の杭は松丸太です。支持層である洪積層までは地表から25m位あるので、10m位しかない松丸太では支持層に届かず摩擦杭として途中で止めざるを得ません。しかも基礎コンクリートの下に密集して打ち込まれた群杭の支持力は単純に『杭の本数×杭1本の支持力』として求めることが出来ないのはご承知のとおりです。明治の技術者たちもこの点に不安を感じたのでしょう。基礎のコンクリートの上に多数のレールを人力でうず高く積み上げ載荷試験をしている当時の写真を見ると、徹底的な現場主義によるモノづくりの精神をひしひしと感じます」
※ 琵琶湖疎水事業
明治期、幕末の戦災と事実上の東京遷都で衰退した京都を復興させるため、明治14年(1881)に第3代京都府知事に就任した北垣国道は、土木技師・田邊朔朗の全面的協力を得て琵琶湖の水を京都市内に引き込む疏水を計画し、その水力で発電を行い、京都市電(明治28年(1895)に一部運行開始した本邦最初の電車)を運行させたほか、新たな工場の動力としても利用し、更には、上水道整備や運河開削による舟運活発化を計画。設計・監督を含む全てが日本人の手によって遂行された日本最初の大土木事業で、明治23年(1890)に完成、その後も事業は拡大、平成8年(1996)には琵琶湖疎水関連施設12カ所が国史跡に指定された。
年 | 月 日 | 事 柄 |
明治34年(1901) | 3月 | 衆議院議員恒松隆慶ほか2「私設鉄道線路に対し補給利子を付与する件に関する決議案を提出 |
明治35年(1902) | 8月 | 名古屋・大阪間客貨運賃に対し官鉄と関西鉄道の間で値下げ競争が起きる |
明治36年(1903) | 8月22日 | 東京電車鐵道運転開始 馬車鉄道を路面電車に動力変更 |
明治37年(1904) | 2月4日 | 日露開戦 |
明治37年(1904) | 2月14日 | 日露戦争に際し近衛師団および各部隊大輸送のため東海道線の列車を特別運行に改める |
明治37年(1904) | 12月31日 | 甲武鉄道市街線 飯田町・お茶の水間開通(複線・電車専用線) 甲武鉄道16両の車両を自社飯田町工場で製造。 明治39年には増備として更に12両、2軸4輪で最初の総括制御方式を採用。計28両は国有化時点で鉄道作業局に編入される |
明治38年(1905) | 3月29日 | 北海道官設鐵道 鉄道作業局の事業の一部となる |
明治39年(1906) | 3月31日 | 鉄道国有法公布。買収鉄道は、北海道炭鉱、北海道、日本、岩越、北越、甲武、総武、房総、七尾、関西、参宮、京都、西成、阪鶴、山陽、徳島、九州の17社。衆議院案の32社が貴族院で17社に変更。 |
※岡田氏作成の表をもとに作成
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今後の課題は土木工事の品質確保
――日本の成長と安全・安心な生活を支えた土木の今後についてどう考えますか
新永間市街線高架橋や中央停車場(東京駅)整備に当たって行われた載荷試験での一コマ。写真後方に積み上げられているのはレール。当時は人力でレールを一本ずつ積み上げていた。(写真提供・岡田宏氏) |
「土木建造物には、通常の工場製品などと異なる際立った特徴があります。それは、『雨露をしのぐことも出来ない現場における一品生産である』ということです。そのため、工場製品のように品質を確保するための近代的な精緻な設備を設けることが出来ません。昭和20年代の終わりころ、私達が就職して現場に貼りついていたころは、昼夜の隔てなく現場を這いずり回って品質の確保に努めていました。仕事量が圧倒的に少なかったのでそれも可能でしたが、現在ではとても無理なことです。そうかといって、日本の建造物の優れた品質が失われてしまうとすれば、指をくわえてこれを放っておくことは出来ません。つい最近もイタリアで高架橋の崩壊事故がありましたが、日本でもいつ起こっても不思議でないと私は考えています。この点は、関係者全員が知恵を絞り対策を講ずるべきです。最近著しい発達を見せているAI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)の技術が使えないものでしょうか? それにはお金が掛かるということを工事の注文者は認識してほしいものです。また公正取引委員会も、土木・建築建造物の、他の製品にはない特徴を充分認識したうえで対応してほしいと思います。
東 京 市 街 地 高 架 鉄 道
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