河川、大事なのは「どう利用するか」
「災害が多発している今、防災の切り口で予算確保をする動きがありますが、河川政策が防災から始まるということは考えられないと強調したい。そもそも災害復旧などは、基金の積み立てできちんと対応すべきです。河川への取り組みでは、防災や災害対策への視点ではなく、どうやって利用するかが大事です」
「その上で、河川を堤防で守るという考え方は止めるべきだと指摘したいと思います。堤防が決壊したら、大きな被害が発生するからです」
堤防より「堤・高台」 線から点のダムへ
利根川(写真奥)と江戸川の分岐点。江戸川は左側へ、利根川は右側に分かれる。宮村氏によれば、江戸時代から竜頭の棒出し、その後は関宿水閘門の整備によって流域の洪水被害を抑えてきたという。また渇水時には江戸川に水を入れる役割も担っているとする。 |
――堤防の代替としては何がありますか
「ダムです。堤防が線の対応だとすると、ダムは点の対策です。そもそも東京を含む首都圏の河川氾濫で被害が大きいと言われるのが利根川です。過去、昭和22年(1947)のカスリーン台風では、利根川の大氾濫により大きな被害を蒙りましたが、関東の死者1100人の8割以上は群馬と栃木の2県に集中しています。この2県は利根川上流で関東平野部の北側に当たりますが、夏は海から山に向かう風が上昇気流になって、そのためよく雷雨が発生します。この雷雨による相当量の雨が関東平野の水資源になっているわけですが、時にはゲリラ豪雨になる。だからこそ点であるダムが必要になるのです。蛇足ですが、この雷雨を坂東太郎と呼ぶのです。決して利根川のことを指しているわけではありません。さらに利根川の東遷事業を徳川家康が行ったという話も明治時代の作り話だと私は見ています」
――東京都内の河川は高潮対策も必要で、堤防整備は欠かせませんが
「私の住まいも江東区のゼロメートル地帯にあります。スーパーという名称を付けて『スーパー堤防』と呼ぶものが出来ていますが『スーパー堤(つつみ・高台)』でいい。時間はかかりますが、最終的には土地の埋め立て、さらに土地のかさ上げ。高台にするしか方策はありません」
※ 坂東太郎
暴れ川の代表例として、坂東太郎、筑紫次郎、四国三郎が挙げられている。宮村氏が指摘するように広辞苑でも、「利根川の異称」のほか「江戸方言として夏の白雲、雲の峰」が併記。宮村氏は、「太郎とは、ゲリラ豪雨・雷雨のことで気象用語だ」と話す。
河川 |
戦後の台風、河川整備を加速 |
東京150 年の歴史の中で、河川整備は幾度も大きな転機を迎えている。ひとつは明治43年(1910)の荒川大洪水を受けて、明治・大正・昭和の3時代、足かけ20年をかけて新たに開削した「荒川放水路」(延長22km、幅500m)。もうひとつは、戦後立て続けに来襲し、深刻な被害を与えたカスリーン台風、狩野川台風、伊勢湾台風だ。カスリーン台風は利根川の大氾濫を招いた。これが、東京都建設局が同台風以前から着手し、戦時中に工事中止を余儀なくされていた「中川放水路(現・新中川)」の整備再始動のきっかけとなった。伊勢湾台風によって、東京都の高潮対策基準は「A.P(荒川工事基準面)+5.1m」へと引き上げられることになる。河川整備のこれまでと今後について、東京都建設局河川部の小木曽正隆計画課長に聞いた。
伊勢湾台風を受け、高潮対策のため防潮堤の高さが決められた隅田川。高い防潮堤の味気なさを解消するさまざまな工夫が施されている。 |
河川事業の柱は、大きく分けると①中小河川、②低地河川、③河川環境、④砂防海岸等――の4つで、中小河川と低地河川が事業費の大半を占めている。このうち低地河川事業の柱は、JR京浜東北線から東側の東部低地帯と呼ばれる地域の高潮対策だ。
東部低地帯は、隅田川、荒川、中川などの大きな河川と支川・派川が縦横に流れ、さらに地下水くみ上げによる地盤沈下で、高潮、洪水など水害を受けてきた。
小木曽計画課長は、「水害から守るため、高潮防御施設の整備として堤防のかさ上げや江東内部河川の整備、耐震対策を進めている」と説明する。こうした事業は、「カスリーン台風、2年後のキティ台風、伊勢湾台風がきっかけとなった」。特にカスリーン台風は昭和13年(1938)の大洪水で浸水戸数6万戸を超える大災害となった中川で、戦時中に工事中止となった放水路建設(新中川)の新設工事が再開されるきっかけとなった。
また東日本大震災を受けての低地河川の地震・津波対策が再検討され、これを経て策定された整備計画に基づいて、「水門や排水機場の耐震・耐水対策を進めている。計画通り平成33年度(2021)までには終了する予定」(小木曽計画課長)。
中小河川には調節池+分水路
高潮時には防潮堤だけでなく、門を閉じて高潮をブロックする水門も効果を発揮、各施設が機能を連携して浸水を防止する(日本橋川の日本橋水門)。 |
一方、昭和33年(1958)の狩野川台風が本格的取り組みのきっかけとなった、もう一つの事業の柱「中小河川事業」の1時間当たり降雨量50㎜整備水準について、小木曽計画課長は「50㎜対応の治水安全度達成率(護岸整備率+調節池整備効果)は80%」と話す。そもそも河川整備は、川幅を広げる河道拡幅と川底を掘り下げる河床掘削という2つの対応で断面を大きくするのが基本。都市が発展・成長するにつれてこうした対策が難しくなっており、これに対応したのが、氾濫する可能性のある洪水を一時的に貯留する「調節池」や、流量を軽減する「分水路」である。
近年は局地的豪雨、いわゆるゲリラ豪雨が多発している。これに対応するべく平成24年(2012)11月に「中小河川における都の整備方針~今後の治水対策~」を策定し、区部では時間最大75㎜、多摩では時間最大65㎜に目標整備水準を引き上げた。
平成26年(2014)6月に策定された「東京都豪雨対策基本方針(改定)」に位置づけた対策強化流域(9流域)では、河川や下水道の整備、流域対策により概ね30年後を目途に浸水被害を防止することとしている。具体的には、「75㎜・65㎜対応として6調節池+1分水路の7事業がスタートしている」(小木曽計画課長)という。
また今後の河川整備について小木曽計画課長は「75㎜・65㎜対応へ向け調節池の整備を推進する」と前置きした上で、「これまでの治水対策に加え、①スマートフォンなどを通じた情報提供の強化といったソフト対策、②予防保全型対応を含む維持管理、③親水性向上など環境対応の3点についても取り組んでいくと展望する。
橋梁 |
構造設計は土木 デザインは建築家が担う |
インフラは明治期から東京の都市づくりを支えてきた。橋梁は、時代の経過によって大きく変貌を遂げてきたインフラのひとつだ。江戸時代の橋は木製で、物流の主役だった舟運を生かすため、ほとんどが太鼓橋形式だった。明治期に入ると優秀な石工が東京に集められ、石造のアーチ橋が作られる。その後、鉄橋が現在の隅田川に続々と架けられることになる。東京の橋梁の歴史の背景には、当時の土木技術者だけでなく建築家もまた組み入れられていた。今年5月、自身の出版物が東京都職員として初めて土木学会出版文化賞を受賞した、東京都建設局道路建設部の
「材料の鉄の製造を除けば、明治中期以降の非西洋諸国のなかで、日本だけが橋梁を設計から製作・架設・施工まで一貫して行った唯一の国だった」。紅林専門課長は明治期以降の橋梁の特徴をこう語る。日本人による自前の橋梁設計・施工を明治期から可能にした背景として、当時世界最大の吊り橋だったニューヨークのブルックリン橋の建設工事にも従事し、東京府の技師長も務める原口要の名を挙げ、後の世界的重工業メーカーとなる石川島造船や三菱重工などの企業勃興・成長を指摘する。
また明治末期以降、現在とは全く違う特徴があった。「構造設計は土木技術者、橋のデザインは建築設計をする営繕課が行っていた」。これは、「明治40年(1907)に全国の役所で初めて東京市に設立された橋梁課の、初代課長に就任した樺島正義が進めた。ヨーロッパの橋のように彫刻を施した親柱が設置されたり、欄干や橋灯などが建築様式に沿ったデザインでつくられるようになった」(紅林専門課長)。
土木技術者と建築デザインが協同で橋梁づくりを行うこの取り組みは、関東大震災後の復興でも続けられ、鉄道省から派遣された復興局土木部長の太田圓三や、橋梁課長の田中豊ら技術者は、デザインについては、逓信省の若手職員をスカウトしたという。スカウトされた若手建築家には戦後、日本武道館などを設計した山田守やモダニズム建築の山口文象がいた。
紅林専門課長が、橋梁設計・技術の大きな転機として挙げるのが「関東大震災後の復興橋梁」だ。震災復興に当たる当時の東京市で新設・架け替えられた橋梁は約430橋。現在、隅田川に架かる道路橋28橋、鉄道橋7橋のうち、震災復興で架けられたのは、永代橋や清洲橋など9橋。復興局と東京市、東京府が分担して整備した。
震災復興橋梁は耐震性も◎
関東大震災の復興事業として架けられた清洲橋。紅林専門課長は「清洲橋と永代橋は橋梁美を一変させた橋」と評価する。 |
この復興橋梁、紅林専門課長は「復興局が架けた橋梁は、耐久性を懸念しトラス橋は1橋もない。また同じデザインもない」と説明する。「当時すでに耐震性能という考え方もあった。復興橋梁の耐震性を調査たら、設計強度は一般的な戦後橋梁(平成8年以前)の約5割増しだった。耐荷力も高く、またコンクリートの中性化や塩害対策も取られており、劣化の進行も遅い。技術者の先を読む力がすごい」と話す。
先人の取り組みを踏まえ、紅林専門課長は現在の我が国の橋梁について、「近年の橋梁は経済性を追求し鈑桁ばかり。復興橋梁のような多様な形式の橋梁を造らなくなっている。このままでは技術力が喪失する。橋梁形式を決める役所は、発注を通して業界や技術を育てるという側面もあることを改めて意識すべきだ」と警鐘を鳴らす。