同じころ、ロンドンにも大火が起こる 明暦の大火から9年後、海の向こうのロンドンで大火(1666年)が発生しました。 ロンドン大火は4日間燃え続け城壁内の約80%を焼失しました。復興の要点は道路の拡張、街角広場の形成と建築物の不燃化の徹底にありました。前年のペストの大流行が都市整備の機運を促したといいます。大火は近代的な建築防火法制と火災保険会社を生む契機となりました。後者はバーボンという医師が個人で火災保険の経営を始めたのが最初です。 建築家のサー・クリストファー・レンがセントポール寺院を再建したのはこの時です。現在のシティの町並みはこの時に出来上がりました。国王の復興への諸施策とその実行に対して、後の人々はThe Great Fire(偉大なる火災)と唱えました。これに比べれば江戸はまだ遅れていました。 (参考文献 黒木喬;『明暦の大火』講談社新書 昭和52年、『江戸東京学事典』三省堂 1987年ほか)
明暦の大火は“放火”だったのか
放火説の根拠は、大火以前に江戸は都市としては限界の状況にあったこと、大火後に復興都市計画が見事に実行されたところにあります。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんでしょう。 江戸は軍事都市でした。堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門などがそれを物語ります。大火以前、江戸は急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていました。明暦の大火の前年に、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えられたことから、この時期に幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていたことがわかります。 封建時代とはいえ、完成した都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからんで、容易にはいかないことは目に見えていました。外様大名たちの屋敷は動かせたとしても、譜代とりわけ御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われました。幕府は公共の理由により土地を収用した場合は代替地を支給し、場合によっては移転費用を支出していました。大火災は大きい犠牲を伴いますが、見方によれば都市の改造を一挙におこなう格好の機会でもあります。ここに幕府首脳の発案による「放火説」が浮上する因があります。城攻めの作戦から、強い北西風が吹く冬の季節の、江戸のどの方面から火を放てば大火が起こるであろうという机上プランは成り立ったと思われます。大火後、出火元のひとつ本郷丸山の本妙寺に咎めはなく、10年後には「昇格した」(黒木喬;『明暦の大火』講談社新書)こともリアリティーのある話として放火説を成り立たせています。(なお火元は本妙寺ではなく隣接の老中阿部家失火説もある。)