■写真説明

天守閣(天守・天守台)跡
お城といえば天守閣。姫路城などにみられる雄壮な天守閣は、皇居にはありません。3回建てられましたが、火事で焼失し、4回目は建てられませんでした。城下より40mほど高いところに建つ、高さ44.3mの高層建築であったといわれ(内藤晶『江戸の町(上)』)、城下から見上げた日本一の天守閣の偉容は「すごかった」と思われます。明暦の大火で類焼し以後は、再建されませんでした。東京観光の目玉として天守閣を再建するという夢の計画があるといいます。

番所の建物
大手門から本丸御殿の玄関までは約600mありましたが、その間に同心番所、百人番所、大番所の警備役人が詰める施設があり、これらは復元されています。写真は百人番所です。

大手門
ここは江戸城の正門で、大名たちはここから登城し、本丸にいたるまで番所の検問を受けました。
登城する大名の行列を一目見ようと、町人たちがここに集まったと言います。「ほら、尾張様の行列が」、「水戸様」、「加賀様」、「細川様」と黄色い声も飛び交ったことでしょう。

 
天守閣跡・本丸
江戸城の天守閣は、慶長12年(1607)に完成しました。当初、 石垣の高さは約11mあり、その上に天守閣がそびえていました。当時としては、日本最大であり、世界的にも大きなものでした。明暦3年(1657)の大火で消失し、その後は再建されることなく、基 礎石である石垣だけが残っています。
 
番所の建物(百人番所)
大手門から本丸に入るときの最大の検問所。この番所で守衛にあたったのは、甲賀組・根来組・伊賀組・廿五騎組の四組で、各組に与力20騎があり、一組に同心百人ずつが配属されていたので、百人番所といわれました。建物は皇居東御苑に、幕府時代のまま残っています。
大手門
江戸城内郭にあった、8つの門のひとつで、江戸城の正門でした。現在、平川門や北桔橋門とともに、皇居東御苑への出入口となっています。東御苑は、休園日(原則として月・金)や、特に行事等がない限り、誰でも自由に出入りすることができます(無料)。
表1
和暦
西暦
江戸城の建設
長禄元年
1457
太田道灌による江戸城完成(室町時代)
天正18年
1590
徳川家康、秀吉の命により関東に赴任。江戸城の建設開始
天正19年
1591
小名木川を掘る。道三堀開通(江戸城と平川河口が結ばれる)
天正20年
1592
西の丸普請はじまる
慶長 8年
1603
家康、征夷大将軍に任命。江戸城下拡張工事開始(「千石夫」)。日本橋・京橋架橋
慶長 9年
1604
家康、江戸城の大建設計画発表
(翌年にかけて諸大名に江戸城造営のための石材木材運搬船の建造を命ず)
慶長10年
1605
江戸城の天下普請開始(家康、将軍位を嫡男秀忠に譲る)
慶長11年
1606
本丸御殿完成。天守閣(台)になる
慶長12年
1607
外観5層内部6階の天守閣(台)完成。
外濠(神田・一ツ橋辺りから溜池)普請(江戸城の威容整う)
慶長16年
1611
翌年にかけて江戸城作事おこなわれる
慶長19年
1614
大規模な石垣普請おこなわれる
元和元年
1615
大坂の陣終わり「徳川の天下」となる(豊臣氏滅亡)
元和 2年
1616
家康没(75歳)
元和 8年
1622
本丸御殿の改築おこなわれる
元和 9年
1623
(家光、3代将軍に就任) 天守閣(台)新築完成
寛永 6年
1629
大規模な普請・作事に着手(内郭の石垣・枡形ほぼ完成)
寛永12年
1635
参勤交代の制度化、12年、19年。大名屋敷群の形成
寛永13年
1636
外濠の完成により外濠が江戸城を右渦巻きのかたちで一周(江戸城総曲輪完成)
寛永15年
1638
天守閣(台)に金の鯱(しゃち)を乗せる
寛永17年
1640
江戸城、一応完成(その後も工事は進行)
明暦 3年
1657
明暦の大火(振袖火事)により江戸城は西の丸を除いてすべて焼失。
(天守閣(台)も焼失し再建されず)
万治元年
1659
江戸城復興
文久 3年
1863
本丸・二の丸焼失(以後、本丸は再建されず)
明治元年
1868
 
明治21年
1888
江戸城明け渡し東京城と改称。西の丸、皇居となる(明治6年炎上)
昭和23年
1948
宮城と称す
昭和38年
1963
宮城を皇居と称し現在にいたる
 
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