東御苑の庭園
小堀遠州が、もとの設計をしたといわれる皇居東御苑の庭園。
本丸のうちには本丸御殿と外観5層内部6階の天守閣(天守、天守台ともいいます)があり、本丸御殿は表(おもて)・中奥・大奥に分けられていました(表2)。ただし重なる火災により施設は焼失、再建・非再建を繰り返します。
 秀忠は全体の計画を城の縄張り(基本計画)の大家・藤堂(とうどう)高虎(たかとら)に命じ、普請奉行に内藤忠清ほかを任じます。高虎は高台の本丸の周りに二の丸、三の丸以下の城を順次、右渦巻き状に配置していく計画(渦郭式)をたてました。

建設資材調達と輸送―大名への課役 

 前回にみた江戸の土木工事(埋め立て)も、建設資材の荷揚げ場を確保する意味がありました。
 江戸城建設の主要な建設資材は、石材と木材でした。石材は江戸市内で調達できるものではなく、産出国である伊豆や関東周辺から運ばれ、その調達と輸送は譜代大名と西国の外様大名に軍役として命ぜられ、大名たちは石高に応じて石船を調達して運びました。途中、沈没した例もありました。
 慶長11年(1606)正月に「西国大名たち参府しておのおの家臣に命じて伊豆の国に使わして石材をとり3,000余漕に乗せて江戸に運送」と記録されています(『徳川実記』)。このときの修築は11月に終わりましたが、普請担当の大名たちは、さらに1万石について大石2つを献上させられました。翌年の普請の際は、関東地方の1万石以上の大名は1万石について20坪の面積分の栗石を幕府に納めるよう指示し、上州中瀬(埼玉県大里郡)から運ばれました。

石垣に刻まれた大名の印(島津公)
予めの申し込みが必要な皇居参観の日に案内されるのが、右手の旧
枢密院の建物に続いて、左手の石垣。職人が自分の持ち場を誇示す
るために彫った丸に十の字の薩摩藩のマークが上のほうに見えました
蓮池濠(はすいけぼり)
この辺りは、江戸城の面影が濃厚です。
夏季には大輪の蓮が花開きます。
二重橋より旧西の丸下(皇居前広場)を望む
ここから下を見ると、高さが実感できます。
さらに、明暦の大火で焼ける 前まであった5層の天守閣から江戸を見
渡したら「どのような光景であったか」と想像をふくらませました。
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