ぐいのみセット
皇室の16弁文様とは花弁の枚数が違いますが、窓明館内にある宮内庁売店などで、お土産として買えます。
 


天保年間の「西の丸修築」の武鑑(菊岡倶也蔵) 
工事関係者名簿というべきもので、幕府関係者の役職と氏名が書かれています。この工事に清水建設の祖、初代清水喜助が町方の大工として参加しています。

 元和6年(1620)の普請の際、仙台藩が担当したのは城内の石壁13町余、枡形(ますがた)(大手門)1か所でしたが労務者42万3,179人、費用は黄金2676枚と5両3分を要したといいます(大石学『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたか』)。人海戦術の様子がわかります。
 以後、寛永6年の外濠普請は108家、同13年の外濠普請は西国大名60家、東国大名45家がかかわり、元和・寛永期の普請は212家に及びました(前掲書)。元和・寛永期には江戸城のほかに、大坂城・京都二条城の普請も、軍役として大名たちに命じました。肥後藩主・細川忠利は「とかく日本も草臥(くたびれ)ハ止申間敷候(やみもうすまじく)」と記しました(前掲書。北原糸子『江戸城外堀物語』からの引用)。江戸城は日本全国の大名たちの、さらにはそれぞれの領国の士農工商の税(労働も含む)によって完成しました。木材は利根川・富士川・木曽川の上流から伐り出され江戸に運ばれました。
道三堀(どうさんぼり)
 明治43年(1910)に埋め立てられたため、いまその流れはありませんが、江戸前の海から和田倉橋の辺りまできていた道三堀は、材木や塩を城内に運ぶ重要な運河でした。その昔、この辺りには材木町、舟町、道三町、四日市町の地名がありました。鎌倉河岸も、建設材料の荷揚げ場のひとつで、4月号で記した豊島屋酒店は、築城に従事する人々に酒を出したのが創業のいわれといいます。
  牛込御門跡(現・JR飯田橋駅前)
江戸城の外郭門のひとつです。
のちサムライの門衛が詰めて、出入りを取り締まりました。
 
 
外濠の跡(市ヶ谷駅前の釣り堀)
人工の運河は、ふつう堀と書きますが、城の場合は「濠(ほり)」と書くことが多いようです。寛永12年(1635)から江戸城西北部の外濠がほられました。神田川から北西に牛込、市ヶ谷、四谷、赤坂を経て江戸湾に通じ、東方の隅田川と南の江戸湾が結ばれて城の外濠として防衛線となりました。濠の岸は石垣で築かれました。これにより城を中心として「の」の字形の濠が右渦巻き状になり、隅田川の水が濠に入りました。濠には要所に「見附(みつけ)」と呼ばれた城門がありました。外濠と内濠は幸橋門で連結しました。現在、市ヶ谷の外濠は市民に開放され釣り人で賑わっています。
 
 
 
  今月の表紙  
御江戸大絵図(部分)(東京都公文書館所蔵)
天保14年(1843)に発行されたもの
 
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