作事奉行のこと-建築行政の最高職
 建築の担当役所である作事奉行が、幕府の職制の中に常設されたのは、寛永9年(1632)のことで、「生まれながらの将軍」といわれた三代家光治政下のこの年は、土木を担当する普請奉行も恒久化し、建設行政機構整備のスタートの年となりました。
 のち貞享2年(1658)に小普請奉行組頭が置かれて、その業務を移管しましたが、常に幕府建築行政の最高職でした。
 格は、目付・寄合・遠国奉行などよりやや上位で、普請奉行や小普請奉行との人事交替もあり、作事奉行を無事勤め上げると、大目付、勘定奉行、町奉行といった幕閣中枢部への登用の機会もありました。作事奉行の禄高は2,000石。
 作事奉行が支配する下僚は、大工頭、作事下奉行、京都大工頭、被官、畳奉行などです。
 大工頭は、いわゆる「大工」の長ではなく、技術官僚の最高位という意味です。定員4名で、大工役の者を統括しましたが、作事奉行とならんで担任工事のほぼすべてにわたって責任を持ちました。この職は、だいたい木原・鈴木・片山各家の世襲で、木原氏の祖は遠州木原郷の出身、家康が浜松に城を築くときに惣奉行として参加し、家康とともに江戸に入ったという人物です。
 京都には、とくに京都大工頭という格式高い職制があって、これは中井氏が世襲しました。中井氏は法隆寺大工の出身。家康の信任をうけ、江戸城天守閣、駿府城、名古屋城、日光東照宮など主要工事に参加しました。京都大工頭の下には4人の京都大工棟梁がいて、禁裡や仙洞の造営修理を担当しました。
 被官は、大工頭の指揮を受けて工事設計と職人たちの監督にあたりました。幕末期には総数25人。被官の下の勘定役は工事現場を見回りながら職人を監督し、上司である被官に報告する役目で、人数は幕末期で23人、このほか見習6人、助手9人がおり、組頭が指揮しました。
 手大工は、工事造作の作業を担当し、寛文3年(1663)の創設時には23人の町大工が採用され、幕末には約50人となりました。はじめ細工頭の管轄で、享保3年(1718)、作事奉行の支配となり、作事方大棟梁より任命された小頭がリーダーでした。
 大棟梁(だいとうりょう)は、甲良・鶴・平内各家の世襲で、それぞれ設計指針書ともいうべき木割術を代々伝えました。
 作事下奉行は、工事を監督するほか係員の勤務評定や材料の調達をし、添番や徒目付から昇進して、大工頭、畳奉行、弓矢槍奉行や材木石奉行に昇進することが多かったようです。
 下奉行の下には手代や書役がおりましたが、手代は総務事務官で、文書の起案から設計図書の配布保管などを行い、16人の定員に加えて見習2人と出役7人がいました。書役は書記で定員4人、うち1人が出役でした(出役とは本役を一時はなれて他の職務につくこと)。

 
建設事業の施行予算や公金支出の手続
江戸において公共建築物を建てる場合、作事奉行とその下僚が起案し、それを勘定奉行配下で老中直属の勘定吟味役が適否を判定して、よいとなれば中印を捺し、最後に勘定奉行が決裁、金奉行が支配する御金蔵から工事費が支払われました。土木工事もほぼ同じ手続です。勘定吟味役は「監査役」で、勘定奉行とその部下に不正があれば老中に報告しました。
工事が開始されると、現地には作事方仮役のほか勘定吟味役も出張して、不正はないかと監視の目を光らせました。入札は勘定奉行が行い、作事奉行が立ち会いました。幕府財政はいわゆる「予算」がなく、すべてが「ドンブリ勘定」で、そのつど起案→中印→決裁→支出という順序で行われました。
 
 
    今月の表紙    
 
 
花火見物の人々で埋め尽くされた両国橋の図(江戸東京博物館提供)(東都両国ばし夏景色)
安政6年(1859)、橋本貞秀・画/藤岡屋慶次郎・版
何十万人規模の群衆が集まるのは、江戸を置いてはなかったこと。
橋の崩壊が心配になるほどの人、人、人…である。
屋形船の多さにも驚かされる。
両国花火の素晴らしさゆえであろう。
 
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