仮役は奉行直属の監察で、工事材料購入の適不適を検証し、品質を検査し、工事の当否を奉行に建言しました。五人扶持と地位は低かったのですが、権勢を保持するので希望者は多かったといいます。寛永3年(1850)には11人の作事方仮役がいました。
畳奉行は、作事奉行の指揮をうけて江戸城・役所・宮廟や霊屋などの畳の新調、修繕、保管をしました。畳奉行の下には畳小屋を守衛する畳小屋門番、畳蔵の番衛である蔵番、伊阿弥・早川・中村の三家が世襲した畳大工などの職制がありました。作業の場所が庶民は近づけない城内や日光東照宮内であったため、畳大工が御用を賜わり、その機会に内部を拝観しようとする諸国の畳職人たちの無償奉仕の申込みが相次いだといいます。
植木奉行は、樹奉行または樹木奉行と称したこともあり、植木に関する用務を担当し、手代15人、同心51人を指揮しましたが、寛政3年(1791)には廃止されました。瓦奉行も瓦材に関することを任じましたが、のちに廃止されました。
小細工奉行は定員2人、江戸城内の器材の小破損を修理し、城外および銀10貫目以上にわたる修理は管轄外でしたが、元禄10年(1697)には廃止されました。
小普請奉行−激職で権威ある職
成立と業務はさきに述べたとおりです。2,000石で作事奉行・普請奉行とならんで下三奉行といわれました。激職で権威があったといいます。小普請奉行は上納銀をもって町方大工を安く自由に活用できました。
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