『愚子見記』(ぐしけんき)
現在知られる最古の建築書は『愚子見記』で江戸時代前期の法隆寺の工匠で中井大和守支配下の幕府棟梁を勤めた平政隆が記したもの。長享3年(1489)に書かれた古い木割書である「三代巻」も含まれる。
(写真の図書は、建設産業図書館蔵)
 
職人政策
 幕府の職人政策はどうだったのでしょうか。
 初めは個々の存在であった職人たちは、やがて親方層を中心に地域ごとに「仲間」を形成しました。それは内仲間(うちなかま)と呼ばれ、得意先関係の調整、手間賃の協定、新規参入の職人や弟子にかかわる問題などを話し合って決めました。利益を守るための“横の結束”が内仲間でした。
 江戸時代を通じて幕府は内仲間について「公認」、「非公認」という対応をみせました。つまり仲間が懇親の域にあれば黙認をし、大火後などに職人が協定をして手間賃の値上げをおこなえば抑え、あるいは幕府の金庫が乏しくなると「営業税」を徴収するために仲間を利用しました。時期別にみてみましょう。
 江戸時代の初めのころは、仲間の結成に幕府の許可は必要なく黙認していました。元禄時代に幕府は職人の統制に乗り出しました。職人町の解体が徐々に進み江戸城ほかの維持管理に対する御用が円滑にいかなくなったことへの対抗措置でした。
 元禄12年(1699)正月、江戸の諸職人を統制する肝煎(きもいり)という制度が定められたことがそれです。肝煎に任命されたのは、御用職人(コラム参照)で、大工棟梁は10人以上にのぼりました。このとき幕府は末端の弟子・手間取りまでを調べて江戸職人組織を把握しようとしています。

喜多院職人尽絵のなかの番匠(大工)
職人の働く様子を描いたのが近世の職人尽絵である。江戸初期に描かれた埼玉県川越市の喜多院に所蔵される京都中心の「喜多院職人尽絵」(国の重要文化財)が有名。番匠(大工)の作事小屋の背後には板に画いた神社の側面図(設計図面)がたてかけられ、ちょうな、墨つぼ、台がんな、やりがんな、曲尺、木槌、のこぎり、小刀、間竿(けんさお)、軽子のついた墨縄(すみなわ)などいろいろな道具も描かれて、当時の大工道具のかたちもわかる。
(「絵図 大工百態」((株)新建築社刊)より)

 
 
  『匠明』(しょうみょう)
『愚子見記』につぐ現存する木割書で、慶長13年(1608)に幕府大棟梁の平内吉政・正信父子によって書かれたもの(原本は東京大学蔵)。近世初期の禁裏や諸寺社、城郭などの建築の形状や大きさ、構造、建築費用、工事仕様などを記している。
木割書としては17世紀後期にまとめられた幕府作事方大棟梁・甲良家の『建仁寺流家伝書』(都立日比谷図書館蔵で)もあり、各種木割のほかに建築儀式の方式と大工技術の由来に関しても書かれている。(写真の図書は、建設産業図書館蔵)
 
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