八代将軍徳川吉宗による享保の改革では、物価引き下げのため親方を主体とする組合の設立を命じる町触が出されました。任意団体の内仲間に対して組合(表仲間)は幕府の公認団体であり、諸職人は町人支配の一環として町奉行に統制されることになりました。九代将軍家重の時代には仲間冥加金(なかまみょうがきん)という間接税が創設されています。職人から税金をとる、ということです。
 田沼意次(1719-1788)の田沼時代に入ると、「株仲間(かぶなかま)」へと発展します。
 営業権を認める代わりに税金をとるという、引き続いての政策で、株札が発行され、これは売買の対象ともなりました。同業者の数は制限されました。つぎの寛政の改革では、町方の職人統制が見直されました。打ちこわしなどに参加した下層職人の実態把握にも乗り出したのです。化成期といわれる文化文政のころには幕府当局と株仲間の癒着が目立ったため、下層町民や武士の反発を招きました。水野忠邦(1794-1851)による天保の改革では物価の引き下げと規制緩和のために、株仲間の解散を命じています。しかし株仲間を解散した結果、幕府の物価政策が推進できなくなり、天保の改革から約10年後の嘉永4年(1851)には、加入自由を条件として株仲間は再興されました。仲間への職人の新規加入も認め開放的な株仲間としました。
 幕府の職人政策は、おおまかに「改革」の時期に実行され、財政が豊かで奉仕への動員が充足されている期間は放置され、奉仕動員数が減少するか財政難になると税金をとりたてました。明治時代に入ると、株仲間は禁止され、同業組合へと変わりました。
 このほかに職人の私的な集合体として太子講(たいしこう)というものがありました。
以下は、いづれも
『未刊 江戸職人づくし集』
(渡辺書店発行)より
職人尽発句集(寛政9年)のなかの番匠(大工)
   
職人尽発句集(寛政9年)のなかの石切(石工)   職人尽発句集(寛政9年)のなかの壁塗り(左官)   江戸職人歌合(文化2年)のなかの左官
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