現在の神田付近の風景
この辺りは職人町の中心で建築土木関係の同業町が形成された。
 

木工技術の普及
 中世までの大工技術は秘伝とされ、父子相伝とか少数の家の独占でしたが、江戸時代にはその秘伝の木割術(きわりじゅつ)が公開され、やがてそれらを書き記した木版本が公刊されました。雛形本と呼ばれた技術書の刊行がそれで、早い例では明暦元年(1655)の『新編雛形』があります。
 18世紀には立体幾何の図式解法である規矩術(きくじゅつ)も体系づけられ、これも公刊されました。
 19世紀に入ると、公刊本建築書の全盛期で、大工が仕事を取るときの簡単な要領までも記したいわゆる「往来もの」まで出版されました。それらの書物を手にすれば、一応は一人前の大工になることが早道となりました。

(以下次号)

江戸時代の職人の身分と区分

 職人は「士農工商」の身分制度からいえば「工」に属し「町人」です。
 職人には【1】表店に住む自立した親方職人(棟梁)、【2】親方ではないが直接注文を受けて仕事をする独立した職人、【3】独立していない職人(【1】親方から仕事をわけてもらって出来高払いの手間賃を受け取る手間職人、【2】親方のところに住み込みで働く雇われ職人)、【4】親方のもとで技能の修業に励む弟子職人、【5】その時その時の仕事をもらう渡り職人である日用取(ひようどり、日雇い)、【6】低い技能の手伝い、などの区分がありました。技術により、上職人(大工)・中職人(大工)・下職人(大工)という区別もありました。外に出て働く大工・左官は出職(でしょく)、自宅の仕事場で仕事をする指物師などは居職(いじょく)と呼ばれました。
 身分上の大きな違いは、 「親方か」「そうでないか」です。大工になりたい者は少年のころに親方のところに弟子入りをして、一定の修業期間(それは盗んで覚えるという教育方法でした)を経て、技術を身につけて一人前となる道を歩みましたが、親方になれるのは一部の者でした。親方の家に生まれなければ親方にはなれず、それでなければ金銭を払ってあとを継ぐ子供がいない親方権を譲り受けました。
 別の観点からは、幕府直属の御用達(ごようたし)職人、大名屋敷・寺院のお出入り職人、諸国の大名支配の職人、都市居住の職人、農村居住の兼業職人にも分けられます。さらに、大工でいえば、社寺建築専門の堂宮大工(略して宮大工)、商人の商家などの町大工、家大工、屋形大工という区分もあり、船大工、車大工、水車大工、機(はた)大工、農具大工、遊郭大工・・・と分化しました。なかでも家大工は数も多く大工の代表でした。
 このほか、渡り西行(さいぎょう)とも呼ばれた出稼ぎ大工は、越後・加賀・木曽・伊豆半島の西岸、瀬戸内海の島々・気仙沼などから多く出て、彼らは親方と数人の弟子が一組になり、仕事を求めて出稼ぎに出ました。

    今月の表紙  
   
 

「江戸名所図屏風(左隻・部分)」(出光美術館所蔵)
江戸時代初期の町の賑わいを描いた風俗画。寛永期の民衆の生き様が躍動的にあらわされている。
表紙は、京橋・銀座付近。

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