江戸太郎重長公の像(世田谷区喜多見・慶元寺)
江戸という土地の歴史は、12世紀初期ごろ武蔵七党の豪族のひとり秩父重継が砦を設けたことに始まる。のちに姓を「江戸」と改めその子重長は源頼朝に従って鎌倉幕府の御家人となったが、室町時代には多摩郡喜多見に移り、近世以降は徳川氏にも仕えて喜多見氏を名乗るが間もなく除封廃藩となる。
 
 
 
 入国後は、菩提寺を選び住民に米を配るなど、宜撫工作も行っています。
 人事面では、徳川四天王の筆頭・榊原康政を総奉行とし、代官頭に任じた伊奈熊蔵忠次、のちの関東総奉行青山常陸介忠成らを配下におき、旧領5カ国の代官や勘定方も動員して、昼夜兼行で家臣団の知行割にあたらせました。このとき、大手門の門前に普請小屋を建て江戸城建設にあたったのが、のちに幕府大工頭・木原氏の祖となった三代木原七郎兵衛吉次でした。
 家康は、江戸城の修理補修は最小にとどめ、町割(町の地割)や知行割に精力を注ぎ、早くも8月中には江戸湾に注ぐ平川河口と江戸城大手門のあたりを結ぶ船入堀の開堀に着手しました(道三堀と命名されたこの堀は、建設資材や蔵米など各種物資を城内に運ぶためのもので、堀の最終のあたりの現在の和田倉門のところに蔵が建てられ、堀沿いには材木・海運商人などの最初の町人町がつくられました)。製塩地である千葉行徳から塩(生活必需品)を江戸へ送るため、隅田川と中川を横に結ぶ運河である小名木川堀(おなぎかわぼり)を開き、開削した土で埋立地をつくりました。小名木川開削により、のちの利根川の上流部の改修と合わせて、利根川の全流域と近辺の諸港の生産物が江戸と結ばれました。運河開削という公共事業の効果はまことに大きく、プランナーの優秀さが感ぜられます。
 
   
江戸氏の墓
慶元寺墓地の、ほぼ中央付近に一族の墓がある。江戸氏の墓が東京にあることを知る人は少ない。

太田道灌の像(1432~86)
室町中期の武将。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。歌人、兵術家、築城家として優れ、15世紀の中ごろ江戸城本丸のあたりに道灌の館が築かれた。上糟谷の洞昌院に墓が、下糟谷の大慈寺に首塚がある。
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