成熟した都市、江戸を焼き尽くした大火事
9月1日は防災の日。
関東大震災により東京・横浜が大きな被害をこうむった日です。
9月号に対応して今回は江戸の大火がテーマです。
1657年に起こった明暦の大火(振袖火事)はその被害の大きさにおいて悲惨でしたが、復興都市計画が実行されて、江戸が大改造されたことも記憶されます。
1721年には、町人と武家人口を合わせて、約100万(同じころのロンドンは50万人前後)の大都市に成長していました。明暦の大火は寛永期(1624‐44)にいたって整備された江戸城と武家屋敷や町並みを一瞬にして灰じんに帰しました。本郷ほかの出火が江戸の町を焼き尽くしたということは、それだけ連続した市街化が進行していたことを物語り、江戸の都市化を反映した災害でした。
1657年(明暦3年)1月18日、本郷の本妙寺より出火した火炎は、この季節特有の強い北西風と前年の晩秋からのひでりという条件下で江戸の町をなめ尽くしました。翌日午前11時、別の場所からの出火により江戸城天守閣、本丸、二の丸が炎上、夜に入ると番町方面からの出火で町々は焼け、鎮火したのは20日の午前8時ごろでした。
高層を誇った江戸城の天守閣は二重目の窓が大火によるつむじ風で自然に開き、火炎を帯びた熱風がなかに吸い込まれ、火勢は本丸、二の丸を襲いました。途中で風向きが変わったため西丸は焼失をまぬがれ城内の人々は争ってそこに避難しました。
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