江戸六地蔵第5番
霊巌寺の境内にある「銅造地蔵菩薩坐像」。都の有形文化財に指定されています。ちなみに、ほかの5つは、第1番品川・品川寺、第2番浅草・東禅寺、第3番新宿・太宗寺、第4番巣鴨・真性寺、第6番深川・永代寺(廃寺となったため、のち上野の浄明院に造立)です。
 
  1. 江戸城内への延焼防止のため多くの寺院を外堀の向側か新開地に移しました。西本願寺(横山町→築地)、東本願寺(神田明神下→浅草)、霊巌寺(霊巌島→深川)、山王権現社(三宅坂上→溜池上)、吉祥寺(本郷元町→駒込)などで、現在も浅草、駒込、芝、目黒などに社寺が多いのはこのためです。この時、吉祥寺門前の住民たちが武蔵野の五日市街道に新田部落をつくりました。武蔵野市吉祥寺のおこりです。
  2. 現在の中央区日本橋人形町付近にあった遊郭の吉原は浅草に移されました(移転指令は大火の前年でしたが)。
  3. 武家屋敷・寺社・町屋の移転のため各地に造成工事がおこなわれ江戸東郊の本所・深川の地域開発が進み江戸の市街は拡大しました。万治2年より竪川、横川をはじめとする人工河川をもうけて排水と交通を整備し、低湿地の埋め立てがすむとひろい直線道路で土地を区画し、利根川から亀有上水を引いて飲用としました。
  4. 江戸城内に空き地をつくるため城内の紀伊・尾張・水戸の御三家の屋敷は麹町と小石川に移動し、その跡地は吹上の庭(約13万坪)とし延焼防止帯としました。火災時の避難場所として主な大名に下屋敷を下賜しました。
 
溜池上の山王権現社(千代田区永田町2-10-5)
現日枝神社。江戸城の鎮守として元々は城内にありましたが、二代将軍・秀忠のとき城外(今の隼町・国立劇場あたり)へ。明暦の大火後に溜池を望む現在地に移りました。山王まつりは、江戸時代より「天下祭り」として盛大です。江戸三大祭りの筆頭で、京都の祇園祭り、大阪の天満祭りとともに、日本三大祭りにも数えられています
駒込の吉祥寺(文京区駒込3-19-17)
初め江戸城和田倉門内にありましたが、のち現在の水道橋北側一帯に移りました。明暦の大火後に現在地へ(武蔵野市の吉祥寺という地名は、大火後に門前住人が寺とは別に武蔵野に移住させられたことによるそうです)。僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、1千余名の学僧が学んだといいます。境内には、お七・吉三の「比翼塚」のほか、榎本武揚、二宮尊徳のお墓などがあります。
 
榎本武揚の墓
吉祥寺境内の墓地右手奥にあります。幕府崩壊後、函館五稜郭にたてこもり抗戦した“五稜郭の戦い”の主謀者です。のち第一次伊藤内閣の逓信相、黒田内閣の農商務相、文部相、松方内閣の外相を歴任しました。
 
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