消防博物館
東京の消防に関することは、ここへ。消防の歴史や変遷が分かるだけでなく、実物消防車や消防ヘリコプター等々も多数展示されています。
 
  1. 大火前の大名屋敷は桃山風の華麗さを競うものでしたがそれを改め「軽い」建築とし、かつ瓦葺きや3階建て禁止の建築規制のほか土蔵造・塗屋造を奨励しました。大火直後に瓦葺きの禁止は奇異ですが、建築費がかさむこと、瓦の崩落に伴う圧死者がきわめて多かったことという見方があります。
  2. その後、青山上水を開通させて青山、赤坂、麻布の宅地化をはかりました。小石川堀の開通により小石川、小日向、牛込方面の都市化が進みました。
  3. 軍事上の理由から架橋を許さなかった隅田川にはじめて長さ171m・幅7.3mの両国橋をかけて、本所方面の干拓と開発をおこないました。
  4. 避難通路である河岸通りや橋の管理に注意がはらわれ、大火の翌年には幕府直属の消防組織である定火消が設置され。火災時に町人の出動を定める町触が出されました。
     なお大火後の諸物価や日雇・職人手間賃の抑制をはかる措置(町触の発令)がとられています。

同じころ、ロンドンにも大火が起こる
 明暦の大火から9年後、海の向こうのロンドンで大火(1666年)が発生しました。
 ロンドン大火は4日間燃え続け城壁内の約80%を焼失しました。復興の要点は道路の拡張、街角広場の形成と建築物の不燃化の徹底にありました。前年のペストの大流行が都市整備の機運を促したといいます。大火は近代的な建築防火法制と火災保険会社を生む契機となりました。後者はバーボンという医師が個人で火災保険の経営を始めたのが最初です。
 建築家のサー・クリストファー・レンがセントポール寺院を再建したのはこの時です。現在のシティの町並みはこの時に出来上がりました。国王の復興への諸施策とその実行に対して、後の人々はThe Great Fire(偉大なる火災)と唱えました。これに比べれば江戸はまだ遅れていました。
(参考文献 黒木喬;『明暦の大火』講談社新書 昭和52年、『江戸東京学事典』三省堂 1987年ほか)

明暦の大火は“放火”だったのか

 放火説の根拠は、大火以前に江戸は都市としては限界の状況にあったこと、大火後に復興都市計画が見事に実行されたところにあります。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんでしょう。
 江戸は軍事都市でした。堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門などがそれを物語ります。大火以前、江戸は急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていました。明暦の大火の前年に、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えられたことから、この時期に幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていたことがわかります。
 封建時代とはいえ、完成した都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからんで、容易にはいかないことは目に見えていました。外様大名たちの屋敷は動かせたとしても、譜代とりわけ御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われました。幕府は公共の理由により土地を収用した場合は代替地を支給し、場合によっては移転費用を支出していました。大火災は大きい犠牲を伴いますが、見方によれば都市の改造を一挙におこなう格好の機会でもあります。ここに幕府首脳の発案による「放火説」が浮上する因があります。城攻めの作戦から、強い北西風が吹く冬の季節の、江戸のどの方面から火を放てば大火が起こるであろうという机上プランは成り立ったと思われます。大火後、出火元のひとつ本郷丸山の本妙寺に咎めはなく、10年後には「昇格した」(黒木喬;『明暦の大火』講談社新書)こともリアリティーのある話として放火説を成り立たせています。(なお火元は本妙寺ではなく隣接の老中阿部家失火説もある。)

    今月の表紙  
   
 
江戸町火消し一覧(「江戸ノ花 子供遊の図」)(江戸東京博物館提供)
万延元年(1860)、歌川芳艶(初代)・画/丸屋甚八・版

「子供遊」と表題に付けられているのは、幕府が火災・地震・水害といった災害を題材とした版行を認めていなかったため、子供の遊び絵といった仮装絵形式で描かざるを得なかったから。
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