鼠小僧次郎吉の墓
回向院境内にある江戸時代の義賊と唱われた盗賊鼠小僧のお墓です。ギャンブルの御守りとして墓の欠片を持ち帰る人が多いそうです。
 

防災の町づくりへ動く
 江戸城炎上という事実は幕府首脳を驚愕させました。幕府は大火後、都市改造の基礎資料とするために大目付北条正房らに命じて、江戸周辺部である深川・本所・浅草・本郷・下谷・小石川・小日向・牛込・四谷・赤坂・麻布・芝を含む広い地域の実測にもとづく絵図を製作して都市計画を実行しました。実測には測量家の金沢清左衛門がオランダ流の測量術を駆使して完成させました。のちの「寛文江戸図」というのがこれです。
 大火後、武家屋敷・町屋ともに移転することがあるので、当面の小屋造りは簡単にしておくようにと命じています。行き詰まりの市街地整備を、復興事業とともにやってしまおうということで幕府の江戸再興・改造策はつぎの通りです。
市街地改造のための諸対策
 江戸改造はつぎのようにおこなわれました。列挙してみます。

  1. 市街地では避難と延焼防止のため道幅の拡張がおこなわれました(新道は最初からひろく、既成の道路については約1.97m突きだして道を狭めていた商家の軒先の庇を除いて道幅をひろげました。通町通りでは約18.2m、本町通りでは約13.8mの確保です)。
  2. 延焼防止のために町中に広場を設定しました(中橋広小路(日本橋の近く)、上野広小路という火除地をもうけました)。
  3. 冬季の北西風にのって南下する火勢を防ぐため町屋を霊巌島に移動して神田と日本橋に二本の高さ7.2mの火除土手をつくり松が植えられました。
大火犠牲者を葬った回向院(墨田区両国2-8-10)
火事・地震や事件による犠牲者、行き倒れ・溺死者などを葬ったお寺で、明暦の大火の犠牲者を弔うために両国橋を渡った隅田川の東に建立されました。供養のため相撲興行がおこなわれ天保4年(1833)秋場所からは定場所となり、江戸有数の賑わいの地となりました。
両国橋
江戸城を守るために渡し船で往復していましたが、明暦の大火後はここに新しい橋を架けて武蔵と下総の国にまたがる意味から両国橋を名づけられました。現在の橋は関東大震災後に架けられたものです。
築地の西本願寺(中央区築地3-15-1)
正式名称は、浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。明暦の大火前は、浅草近くの横山町にありました。
深川の霊巌寺(江東区白河1-3-32)
明暦の大火前は、霊岸島(現中央区)にありました。境内には、寛政の改革で名高い松平定信の墓所があるほか、江戸六地蔵の第5番があります。
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