東大赤門(国の重要文化財)
赤門は、東京大学の代名詞ともなっています。13代藩主前田斉泰のもとに、11代将軍家斉の娘・溶姫が輿入れしたときにつくられた御住居の表門です。1825年の建造。正式には御守殿門(ごしゅでんもん)といいます。明治36年の敷地拡充の折りに、西へ15メートルほど移されました。地下鉄丸の内線「本郷三丁目」駅から徒歩8分、南北線「東大前」駅より徒歩12分ほか、バスの便もあります。
 
「江戸名所図会」にみる大名屋敷
いまは官庁が集中する霞ガ関はその昔、大藩の大名屋敷がたち並んでいました。「図会」は二組の大名行列がすれ違うところを描いていますが、日傘をさした女性グループも、僧侶も、天秤をかついだ物売りも平気で歩いています。庶民が道端に土下座して顔もあげられないのは映画かテレビの世界だけのようです。
 
 
赤門のデザイン
 
東御長屋の井戸跡
大名屋敷には、足軽など下級武士が住む長屋がありました。長屋の井戸跡(いまは埋められてしまいました)が、東大病院がある竜岡門を入ってすぐの山上会館竜岡門別館の前にあります。「この井戸は江戸詰めの藩士が暮らした生活空間(長屋)に伴う唯一の遺構として評価される」と説明文にありました。

東御長屋の石垣(竜岡門)
コンクリートの塀の下に旧長屋の石垣が残り、写真の左手前に下水の排水口らしいものが見えます。

表 武家屋敷の区別
上屋敷
藩主とその家族の居所。道を隔てた反対側にある「向屋敷」もあった。登城の便から江戸城の周辺に配置され藩役所の機能も持った。
下屋敷
隠居所または世継ぎの居所。また上屋敷の修理や被災の際の避難所。側衆・大番頭・留守居役のような幹部にも一代を限り2ヶ所に与えられた。多くは郊外にあり、別荘や庭園として使われた。

中屋敷

大藩が持ち、参勤交代の家臣の宿舎などに当てられた。
添屋敷
それそれの屋敷の付属建物を添屋敷といった。
蔵屋敷
米穀や国元の産物を貯蔵した。倉屋敷ともいった。
抱屋敷
武士・寺社・町人が百姓地を購入することがあり、これを抱地という。そこに建てる家屋をいった。
大縄地
下級武士の宅地は職務上で同じ組に属する者がまとまって屋敷地を与えられたが、これは土地を一括することから大縄地・大縄屋敷といわれた。
町並屋敷
大奥女中・医師・絵師・坊主・能役者等に給与し、彼らは町人に貸して地代を収めた。武家地としては異例。

参考『港区史 上巻』 昭和35年ほか
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