大聖寺藩江戸上屋敷址の記念碑
大聖寺藩は、加賀藩の3代藩主前田利常の三男利治が父より譲り受けた藩です。最初7万石で、のちに10万石となりました。有名な九谷焼は、初代藩主利治が後藤才次郎に命じて領内の九谷村に竈を築いて産出したものと伝えられています。大聖寺藩江戸上屋敷は、東大医学部附属病院の辺りにありました。写真の右の奥は御殿山下グランドです。
 
 
 全国の土地は、一部を除いてすべて幕府の所有であり、家臣は「賜わるかたち」で地上権を与えられるという考え方です。
 さらに幕府は、寛永時代から巡見使制度を用いて、将軍の代替わりごとに諸国の大名領・幕領の状況、民政の善し悪しを査察させました。将軍の肉親といえども、不都合があれば改易されました(以上、『国史大辞典』吉川弘文館刊を参考としました)。
 江戸におかれた大名屋敷の背後には、このような幕府による厳しい統制の仕組みがあったのです。
 江戸に広大な大名屋敷がおかれたのは、参勤交代制(藩主が1年ごとに江戸に住む)と、それと表裏一体にあった大名妻子江戸居住制にありました。参勤交代制は、大名たちが幕府に「二心の無い」ことを示させるための制度で、領知(土地を領有して支配すること)することを幕府に保証された「御恩」に対して謝意を表すという意識から出たものでした。
  ←加賀藩上屋敷の遠望(安藤広重画)
現在の赤門が描かれています。(『文京区史 巻二』昭和43年より)
↓鳥取藩池田家上屋敷の表門(国の重要指定文化財)
東京国立博物館の正門の西にある江戸末期の大名屋敷遺構です。
 
   
  ←前のページ次のページ→
(page||4|