蛇塚
 不義を働いた奥女中に対して、蛇を用いて折檻したことにまつわる塚といわれます。東大正門を入って、工学部建築学科前あたりの茂みの中にあります。キャンパスに、このような怨念の塚があるとは、ちょっと誰も気がつかないでしょう。
(本号に掲載した構内の写真に関しては、西秋良宏編『加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡』東京大学出版会 2000に紹介されている“本郷キャンパス史跡マップ”を参考とさせていただきました)
 
  最近の江戸研究においては、参勤交代制による巨額な江戸藩邸(大名屋敷)予算が、大江戸経済発展の基礎となったといわれています。すなわち、藩主が江戸に滞在するあいだ多数の藩士が江戸詰めとなり、彼らに対する俸禄以外の特別手当、住居費、奉公人の給与、食料などの賄い料や藩主周辺の交際費や江戸在住の大名妻子とその周辺の消費が、江戸の経済を活性化したというものです。また、大名行列が往復する五街道の整備、宿場における本陣、伝馬や飛脚などによる情報の交流や国元との往復による産物の往来など、参勤交代制はもうひとつの効果を生み出したといわれています。
主な大名屋敷の「転用」のさま 〜明治初期といま
江戸の主な大名屋敷が、どのように転用されたのでしょうか。明治初期と現代(途中の変遷は省略)の様子を見てみましょう。まだ財政的に恵まれなかった明治新政府が、スムースな政権運用が出来たのは、大名屋敷の存在にあります。当初の官庁施設は、ほとんど大名屋敷跡に入りました。
一橋邸(陸軍軍馬局→気象庁・竹橋合同ビル)。酒井左衛門尉邸・松平越前守邸(紙幣寮→日本経済新聞社・農協ビルほか)。小笠原左京大夫邸(農商務省→読売新聞社・大手町ビル・みずほ銀行本店・大手町サンケイプラザ)。酒井雅楽頭邸・大岡主膳邸(帝室林野局→パレスホテル)。松平越後守邸・水野壱岐守邸・松平和泉守邸(司法省・大審院・東京裁判所・警視庁→東京駅・東京中央郵便局・東京三菱銀行本店)。牧野備前守邸・本多越中守邸(太政官→皇居外苑)。細川越中守邸・松平和泉守邸(陸軍省用地・東京鎮台→丸ビル・新丸ビルほか)。松平土佐守邸(陸軍練兵場→東京国際フォーラム)。松平安芸守(外務省)。細川豊前守邸(ドイツ大使館→国会図書館)。三宅土佐守邸・松平兵部大輔邸(陸軍大病院→国立劇場・最高裁判所)。紀伊邸(北白川邸→赤坂プリンスホテル)。井伊邸(ホテルニューオータニ)。尾張邸(皇居御用地→上智大学ほか)。御用地(靖国神社)。御舟蔵(開拓使→東京シティエアターミナル)。尾張家蔵屋敷(民部省鉄道掛・海軍省→東京中央卸売市場・東日本建設業保証・三井造船・朝日新聞社)。浜御殿(浜離宮恩賜庭園)。脇坂淡路守邸・松平陸奥守邸・関但馬守邸・森越中守邸(鉄道寮・海軍省用地→旧新橋停車場ほかシオドーム)。山口筑前守邸・定火消役石川又四郎邸(文部省用地→アメリカ大使館)。松平主殿守中屋敷(慶應義塾大学)。松平隠岐守(勧業寮→NEC本社・戸板女子短期大学)。紀伊邸(仮皇居→迎賓館)。水戸邸(小石川砲兵工廠→東京ドーム・小石川後楽園)。信州高遠藩内藤家(農作物試作試験場→新宿御苑)。柳沢吉保邸(六義園)。小石川養生所(小石川植物園)。南部家下屋敷跡(有栖川宮記念公園)。細川家下屋敷跡(新江戸川公園)など。
 (国土庁大都市圏整備局編『東京都心のグランドデザイン』平成7年の表を抜粋し加筆しました。)
 
 
  今月の表紙    
 
 
◎寛永の大名屋敷(模型、復元年代:17世紀中期 縮尺:1/30)(江戸東京博物館提供)
江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平伊与守忠昌(1597〜1645)の上屋敷。
明暦の大火(1657)で消失した。以後、このような桃山風の豪壮な建物は姿を消した。
左(表紙)は御成門、右(裏表紙)は全景。
この模型は、「江戸東京博物館」に常設展示されている。
 
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