大名屋敷を成立させた
幕府の巧妙な「掟」

 江戸幕府が全国を統治できたのは、競争相手である諸大名を倒し屈服させたことにあり、幕府が長期政権を維持するためには「諸大名を統制すること」が必要でした。
 そのために関ヶ原以後の成立期に、外様大名の改易(所領や家禄・屋敷を没収すること)、全国的な配置替え、武家諸法度の制定、参勤交代制の実施(寛永19年に例外を除いて完全実施)、領地の石高基準の軍役制の公定など、統制のための強力な政策がおこなわれました。
 大名が戦国時代以降に自力で戦いとった私家領であっても、たてまえ上は将軍の恩賜により領有することを公認された領地であり、将軍の代替わりごとに領知朱印状が与えられました。大名の家督相続に際しては、幕府から朱印状を下賜されてはじめて領有権が継承されました。

山上会館前の石垣
東大の山上会館の建設の際の発掘調査で発見された江戸初期の構築と思われる石垣で、石材は溶結ぎ灰岩と安山岩で、ノミの跡と刻印が見えました。
富山藩邸の石碑
山上会館の近くにある石碑で、漢字で彫られた文字に「江戸城之北富山太守藩邸」の文字が見えます。このような日本的な風景が、東大キャンパスにあるとは意外に思われるかも知れません。
三四郎池(心字池)
加賀藩上屋敷のころの庭園・育徳園心字池が正式名称です。夏目漱石「三四郎」の主人公がヒロインと池畔を散歩するなど作中の舞台となって以来、誰いうとなく三四郎池と呼ばれるようになりました。
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